大磯・二宮・中井 コラム
公開日:2022.11.25
大磯歴史語り〈財閥編〉
第50回「安田善次郎【18】」文・武井久江
今回で本当の終焉です。それだけ魅力的な彼の生き様と関わった方たちの後日談の最初は、妻の房子です。この事件が起きた時、彼女は善次郎の留守中に食べた海老フライがあたって病臥していました。「亭主の留守中に贅沢をしたからだ」と、世間は面白おかしく新聞ネタにしましたが、心配した善次郎は、わざわざ東京から名医を呼んで診察してもらっています。生涯、2人の夫婦愛は変わりませんでした(こういうところが素敵ですね)。2人目は、石渡七五郎という人です。朝日平吾が凶事を起こす前年(大正9年)に株で大損して熱海の錦ヶ浦で投身自殺を図ろうとしたところを、付近の大地主だった石渡が説得して思いとどまらせました。後に、その朝日が善次郎を刺殺したと聞き、「もし、自分が朝日の自殺を助けなければ、この事件は起こらなかったはず。安田さんに大変なご迷惑をおかけした」と気の毒がったといいます。
ほかにも気の毒な人がいました。女中の望月運です。たしか年は16歳でしたか。2人にお茶とカステラを運んで一度部屋を離れましたが、善次郎の悲鳴を聞いて望月が部屋に駆け付けてみると、あたりは血の海と化していました。そしてそこには、朝日が目をぎらつかせて仁王立ちになっていました。「騒ぐとお前も同様だ」。そう言うと朝日は、血糊のついた短刀をちらつかせました。望月が急いで別荘番の栄吉を呼びに現場を離れた直後、朝日は手に持っていた短刀を捨て、鞄の中から用意していた西洋カミソリを取り出すと、床柱を背に、立ったままの姿勢でのどを掻き切りました。壮絶な最期でした。その時の望月の事を世間は「なぜ身を挺してご主人様を守らなかった」と攻め立てました。まだ16歳の少女までも責めました。そんな望月は善次郎の死に責任を感じたのでしょう、その後70数歳になるまで安田家に仕えました。亡くなった時、本当に小さく丸まって死んでいたのを見た安田一(はじめ)(善次郎の孫)は「涙が止まらなかった」と述懐しています。
孫の一は後年、善次郎の気持ちが解るものが残っていたと語っています。善次郎自筆のミミズクの画にこんな句が添えられていました。「小鳥ども 笑わば笑え われはまた 世の憂きことは 聞かぬみみずく」(=常に陰徳を積め)。この俳画は今も安田家に飾られています。
事件直後、浅野総一郎は「安田さんの死は国家にとって多大な損失だ。俺自身は、杖を失った盲人のようなもの、でも何とか一人で歩いて行こう」と語っています。次回は、浅野財閥です。(敬称略)
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