大磯・二宮・中井 コラム
公開日:2023.01.27
大磯歴史語り〈財閥編〉
第53回「浅野総一郎【3】」文・武井久江
総一郎は、養子先の宮崎南禎の家を出て、村の実力者の山崎善次郎の口添えで何とか縁組を解いてもらいました。しかし、家に戻ったものの、何をするでもなく、1日部屋に閉じこもっていました。この年、文久2年(1862)数え年で15歳、元服の年です。このままで良い訳がありません。総一郎「おらも1人前になったんだから、今年は仕事がしたい」。何をすべきか。色々頭には浮かぶが、先立つお金がない。実家は、姉が継いでいるのでお金を出してくれとは言えない。そんな悶々とした日々を過ごしていた5月の事です。姉が突然体調を崩し、その月の23日に亡くなりました。青天の霹靂です。悲しみというのは、本当に突然来るのですね。享年31歳でした。更に、不幸は続くのでしょうか? 姉の夫・泰元が原因不明の病にかかり、7月18日に亡くなりました。享年44歳。何と夫婦してこんな悲しい亡くなり方があるでしょうか。母・リセの悲しみは想像ができないほどでした。村人に何度もこんな事を愚痴りました。「浅野家は今までが良すぎたのかもしれない」。そして、総一郎15歳、弟13歳、長女夫婦が残した幼い孫。母は突然3人の子供を育てなければならなくなりました。この母と共に当然、総一郎は一家を背負うことになります。
ここから彼の九転十起の人生のスタートです。第1番目の仕事(起業)です。母にお金を出してもらい、実家の裏庭に納屋を建て、最初の事業を始めます。縮帷子(ちぢみかたびら)と呼ばれる夏用の着物を作る工場です。彼は衣・食・住に関連した商売であれば需要も高いと考えました。能登から女工を数人雇って縮を織らせ染色をして仕上げました。総一郎はその着物の行商をします。「工場長兼営業部長」を15歳の彼が務めることでこの仕事が始まり、彼は販路の開拓に努め、原料の麻を大量に買い込み、大量増産体制を取りました。深夜まで働き、商売は順調に推移しました。彼は自信に満ち翌年、新たな事業を思いつきます。第2番目は食です。醤油の醸造を思いつきました。家の裏手の竹藪の中に小屋を建て、大きな樽を二つ用意しました。帷子が衣・醤油は食。彼が最初に掲げた二つの事業を同時にすることで、需要が大きい、利益は単純に2倍になると予測したのです。しかし、机上の計算通りに行かないのが現実社会です。思った通りには通用しませんでした。原価が予想以上に高く、また少年が経営している事で足元を見られて売値は叩かれ、縮帷子も醤油も採算割れ、挽回する事も出来ず、いずれも廃業することになったのです。彼は反省ということより、失敗をバネにする人でした。九転十起は続きます。
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