大磯・二宮・中井 コラム
公開日:2023.02.10
大磯歴史語り〈財閥編〉
第54回「浅野総一郎【4】」文・武井久江
総一郎は、失敗をバネに次なる事業を探します。「富山には水田が多い、売るよりも貸し付けた方が毎年利益が安定して出る」。そこで目を付けたのが、3番目の事業になります、稲扱きのレンタルです。稲扱きは、実った稲穂からもみを落とすもので、農民に重宝されていました。今で言う脱穀機です。それを仕入れて農家に貸し出すというのが今回のビジネスです。この事業は、更なる軍資金が必要になりました。母からはもとより、親戚や近所の人からもお金を出してもらい、総額200両を集めました。稲扱きは因幡(今の鳥取県東部)で製造・販売されており、京都経由で因幡まで出向くことにしました。日本海沿いを何日も掛けて歩くわけですから、手ぶらではもったいないと思い、氷見のブランドと言われている氷見針を持って道中、行商することにしました。これが4番目になります。きっと京都では大量に売れるに違いない、そうすればより多く稲扱きを調達できるという皮算用をしたのです。彼の晩年の事業の相談相手になってくれる同郷の安田善次郎公とは、当時全く真逆の考え方を持っていました。善次郎は皮算用的な考え方はありません。常に計画的で確実な計算から割り出した事業展開をしていました。なので、総一郎はこの後も新しい事を考えては失敗の人生をまだまだ繰り返します。しかし善次郎の事業に失敗はありません。そんな二人が出会うのは、まだまだ先の事になります。
話を京都に戻します。元治元年(1864)3月に母と弟・貫一に見送られ、「苦労を掛けたおっかちゃんのためにも成功させたい」と心に誓い富山を後にしました。約1ヶ月かけて京都に着いたのは4月。京都は宿代が高かったので、東本願寺の宿坊に泊まりました。氷見からの知り合いの口利きで無料で泊まる事が出来ました。総一郎は京都に1ヶ月以上滞在し、明治維新の「前夜」の雰囲気が漂い尊王攘夷・倒幕運動の志士らが活動している一方、長州・土佐藩の志士を新選組が襲撃した池田屋事件が起きた6月5日の直後に京都を離れました。そんな中、一軒一軒家を訪問し、氷見針を売ろうと女性を見かければ声を掛けましたが、こんなご時世に針はさっぱり売れませんでした。因幡に着くと少しでも安く仕入れるために必死に値切りました。その甲斐があり6月上旬に総一郎が買い付けた稲扱きを積んだ一艘の船が氷見の沖合に錨を下ろしました。さあ事業開始です。次回へ。
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