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大磯・二宮・中井 コラム

公開日:2023.02.24

大磯歴史語り〈財閥編〉
第55回「浅野総一郎【5】」文・武井久江

 氷見の沖合に着いた船から、総一郎が買い付けた稲扱きが大量に陸揚げされていきます。近隣の農家に貸し付けましたが、不幸な事にこの年は梅雨の時期が長く、長雨は稲の生育に悪影響をもたらせ、7月中旬になり今度は猛暑となりました。雨が全く降らない旱天(かんてん)です。長雨から日照り、あまりに極端でした。長雨そして干ばつのダブルパンチで、この年は大凶作となりました。当然、収穫が減少し収入は減り、総一郎から借りた稲扱きの賃料が払えない農家が続出しました。嘆く農家の人たちに、金の催促は出来ません。結局借りたお金は焦げ付き、この事業も失敗しました。そんな時、いつも総一郎を温かく見守ってくれていたのが、村の実力者の山崎善次郎でした。その善次郎が、総一郎に結婚を勧めたのです。総一郎は「面倒くさいので嫁を欲しいとは思わん」、だが山崎曰く「働くだけが孝行ではないわ、結婚して安心させることも孝行だ」。大野村の庄屋の鎌仲惣右衛門さんが養子を探している、私はお前が良いと思った。ここで山崎が悪魔の囁きをします。「鎌仲家は財産があるぞ。お前が仕事をするにも元手が必要じゃ。養子に入ればお金を出してくれる」。総一郎は迷いましたが「養子に入れば、お金を出してくれるぞ」という山崎の言葉で決心しました。

 鎌仲家の一人娘・ヤスと結婚したのが、慶応2年(1866)、19歳の時でした。総一郎は1年間婿として農業に精を出しました。鎌仲家は150石の庄屋で、20人以上の奉公人を抱えていましたが、生活は質素でした。結婚の翌年、総一郎は思い切って「何か商売をさせて下さい」と惣右衛門に懇願します。惣右衛門は、この1年まじめな働きぶりを見ていたので、信頼し資金を出すことを承諾しました。明治維新の直前、加賀藩は加賀や能登の産物を、他の藩に売る産物会社を奨励していて、それに総一郎は着目し自分もその「産物会社」を起ち上げることにしました。これが5番目の事業になります。彼が始めた産物会社の主要商品はわらや藺草(いぐさ)等で編んだ蓆(むしろ)です。近隣の村人たちも説いて資金を出してもらい、儲かれば配当を出します。実はこのシステムこそが、明治からの日本の資本主義の原理「株式会社」の走りです。彼は本質的に近代的かつ合理的な考え方の持ち主です。儲かれば出資者に多額の配当を出し、手にしたお金はすぐに次の仕入れに回してしまう。でもこれが仇になり赤字。会社を創設したタイミングも悪く明治維新前夜、まさに内戦状態に陥ろうとしていました。さらに、総一郎の会社の販路は政府軍が攻め込む戦闘地帯でした。

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