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大磯・二宮・中井 コラム

公開日:2023.03.10

大磯歴史語り〈財閥編〉
第56回「浅野総一郎【6】」文・武井久江

  • 氷見の生家

 5番目に立ち上げた「産物会社」の主要商品は、わらや藺草(いぐさ)などで編んだ蓆(むしろ)だけではなく、北日本の色々な地域から仕入れた、能登の酒・越後の五穀・蝦夷(えぞ)のにしんなど。義父の鎌仲のネームバリューがものをいった事もあり、事務所は柏崎と新潟に置き、前の失敗を踏まえて、社長は年配の方にお願いして、自分は販売責任者となって、越後・越中・加賀・能登にまで販売し、遠くは北海道まで販路を拡大しました。利益も出し、出資者には、それなりの配当も払えるようになり、総一郎の名前は日本海側一帯で少しずつ知られるようになりました。少年の頃の夢であった「銭屋五兵衛になりたい」。その夢に、一歩近づいたと思っていました。

 前回でお話をした、タイミングが悪かったというのは、「産物会社」を創設した慶応3年は明治維新前年、翌年1月には薩摩・長州藩が中核となる新政府と旧幕府軍との戊辰戦争が始まりました(先月の語り部の会は、新島八重を通しての戊辰戦争を語りました)。5月には、奥羽越列藩同盟(陸奥・出羽・越後)が旧幕府側に合流しました。新政府に対抗するために、東北地方を中心として作られた組織です。奥羽越列藩同盟は一時、日本列島の半分を影響下に置いていました。総一郎の産物会社が販売していたのはその地域でした。その影響で、まず加賀藩直営の産物会社が破綻しました。そして総一郎率いる産物会社は、加賀藩よりはるかに資本力はありませんでしたので、危機的な状況に陥ったのです。さらに、明治2年(1869)秋には、加賀や能登は大凶作、各地で百姓一揆や打ちこわしがおきました。昔ながらに諺は色々ありますが、自分流に解釈をする時があります。総一郎もそんな思いだったのでしょうか?「混乱状態に商機あり」。総一郎は、米を買い付けるために急遽、新潟に向かいました。米が不足している加賀や能登で売れば大儲けできる。またこの考えが出てきました。この仕事を、6番目としましょう。待望の船が、買い付けた米を載せて氷見の港に着きました。陸揚げして総一郎は驚きました。米は、上質なものは一部だけ、大半は不良品でした。また新潟の商人に騙されました。結局、産物会社は巨額の負債を抱えて倒産。「日本一の婿さん」と言われたのもつかの間、大野村では大騒ぎになり、当時言われたあだ名は「総一郎ではなく、損一郎」。これをきっかけに婿養子にピリオードが打たれ、また実家に戻ることになりました。

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