戻る

大磯・二宮・中井 コラム

公開日:2023.05.12

大磯歴史語り〈財閥編〉
第60回「浅野総一郎【10】」文・武井久江

 総一郎は常に、人に会うたびに「稼ぐに追いつく貧乏なし」と、必死になって働きました。当たり前と言えば当たり前の話ですが、失敗続きでもくじけない総一郎の言葉には実感が込もっていました。

 上京して1年が経った頃、店の向かいに貸し布団店の万屋が有り、そこに勤めていた少女(当時16歳)サクは、この町1番の働き者として知られていました。彼曰く、容姿はさほどでもなかったものの、気立ての良い少女でした。

 総一郎と共に働いている重吉は「旦那、あの娘は、明るくて評判ですよ、嫁にしたらどうですか?働き者でぴったりですよ」。サクは、宇都宮の裕福な家庭で育ちました。旧姓は鈴木で維新前は寺子屋にも通えて、恵まれた環境でした。

 しかし、維新がきっかけで、薩摩藩や長州藩率いる官軍が慶応4年(1868年)、上野で徳川家の残党である彰義隊を打ち破り、その後北上し宇都宮に入り、町は火の海となりました。

 サクの家も例外ではなく被害に遭い、家族は横浜に移住。少しでも食い扶持を減らす為に、奉公に出されました。14歳で最初に奉公に出たのは米問屋でした。7貫(1貫=3・75キロ)の米俵を運ぶ姿は、近所でも評判になりました。

 ところが昼だけでなく、夜は針仕事をさせるので睡眠時間は3時間しかありませんでした。ある日あまりに疲れた為に、料理中にうとうとしてしまい煮立った鍋に手を突っ込んで大やけどをしてしまい、それでサクは即刻暇を出されました。

 その後、奉公に出た万屋がきっかけで総一郎と出会い、これから後の、彼の人生になくてはならない人になっていきます。結婚する時にサクにほれ込んだ総一郎は「俺は、誰よりも働く人生を送りたい。妻となる女も同じように働きもんであってほしい。サクを嫁にしたい」と、町の有力者の山本京平に気持ちを伝え、仲人を依頼しました。

 明治5年(1872年)、25歳の総一郎・16歳のサクは結婚しました。小さな鯛を焼き、総一郎が赤飯を炊きました。

 サクに、「大熊良三」という偽名で生活している事を話しましたが、サクは全く気にしませんでした。横浜・住吉町に構えた住居兼店舗で、総一郎と重吉、それにサクの3人が生活するようになりましたが、生活は苦しく、貧しかったですが、まさに希望にあふれた生活でした。嫁をもらい、ますます仕事に精を出し、更なる仕事に乗り出します。竹の皮を仕入れていた姉崎は、薪や炭が安く入る場所でもありました。当時の日本のエネルギー源は薪や炭が中心で、今でいう、バイオマスエネルギーです。

 次の仕事の目標が決まりました。さあ〜、又突き進みます。

ピックアップ

すべて見る

意見広告・議会報告

すべて見る

大磯・二宮・中井 コラムの新着記事

大磯・二宮・中井 コラムの記事を検索

コラム

コラム一覧

求人特集

  • LINE
  • X
  • Facebook
  • youtube
  • RSS