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大磯・二宮・中井 コラム

公開日:2023.05.26

大磯歴史語り〈財閥編〉
第61回「浅野総一郎【11】」文・武井久江

 人生というのは、本当に良い事悪い事が交互にやってくる。見本のような人生を総一郎は見せてくれます。

 サクと結婚して、これからの人生の苦労は一人ではない、素晴らしい味方を得たと頑張る総一郎です。次なる商売は、薪や炭を扱います。貯金をはたき近くの空き地に「薪炭商大塚屋」を起ち上げたのは、明治6年(1873)10月の事です。薪炭はよく売れました。商売の幅は広がりましたが、総一郎は働き者の為に、従業員にも重労働を求めます。その為「大塚屋は夫婦が働き者なので、人使いが荒い」という噂が立ち、奉公人が定着しなくて、困っていました。

 そこに御園徳蔵という男を紹介されます。徳蔵は「私は百姓をしていたので辛い事でも辛抱します」と言ったものの、総一郎の元で働いてみると凄まじいほどの重労働にびっくり。しかし、総一郎の妻のサクはまだ17歳、でも総一郎と変わらずに働くのを見て「女子までこんな重労働するのか」と逃げ出したい時も有りましたが、総一郎一家が総出で働いているのを見て頑張るしかないと思いました。

 この時、総一郎の弟・寛一も東京に出ていて、昼間は大蔵省の横浜税関に勤め、夜は帳場に座り働きました。薪炭の商売が順調になると、店はサクと徳蔵に任せ、次なる商売に挑みます。朝一番の列車で東京に行き、得意先を回り帰りはいつも最終列車でした。次の仕事は、石炭に目標を決めました。薪炭は、単価が安いので、石炭は最も将来性があると定め、情報をくれたのが、神奈川県庁の宮川でした。宮川がこんな事を言います。「大塚屋さん、ちょん髷をなぜ切らないのですか、横浜は外国人の出入りも多く文明開化の世の中に、今だにちょん髷は、時代遅れでは有りませんか?」総一郎は「私は頭の形だけが文明開化ではなく、脳みそが近代的になる事が大事、でも1万円(現・1万倍)貯まったら、切りましょう」。思ったより早くその時が来ました。

 明治7年(1874)6月に総一郎はちょん髷を切りました。商売は順調でしたが家庭で不幸が有りました。弟の寛一がその翌月に亡くなり、初めてサクの前で涙を見せました。でも、弟の為にも頑張ろうと立ち上がった時に更なる2つの災難に見舞われます。最初は強盗、次は火事です。3軒隣からのもらい火でしたが、今迄貯めた3万円近い財産がわずか1時間で灰になりました。焼け跡に立った総一郎は、茫然自失でした。すると隣で寝間着姿のサクが思いもよらぬ事を言い出しました。「私は家が燃えるのを見ながら、むしろやる気が出てきました。こんな事で、貴方は負ける人ではありません。一緒にやり直しましょう」妻の言葉に、総一郎は我に返りました。

 又、1からスタートです。次回。

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