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大磯・二宮・中井 コラム

公開日:2023.06.09

大磯歴史語り〈財閥編〉
第62回「浅野総一郎【12】」文・武井久江

 妻の言葉で、総一郎は我に返りました。前回の最後の言葉です。意気消沈してばかりはいられない。逆境こそ、人間の真価が問われる。富山で後見人だった山崎翁の言葉が脳裏をかすめました。「九回転んでも十回起きろ」、総一郎は「こんな火事ぐらいでは負けられん。サク、苦労かけるが頼んだぞ」総一郎夫婦と徳蔵は寝食を忘れるほど猛烈に働きました。

 この火事から7か月後の9月13日に待望の第1子のマツが生まれました。総一郎28歳、逆境からの再出発です。

 3人の奮闘の結果、わずか1年程で1万円を貯めました。神奈川県庁の宮川からある日こんな情報を教えてもらいました。「埋立地の吉田新田にアメリカの会社が出資した土地があるが、今借りる人がいないので、向こう3年間無償で貸し出すと言っていますが、手を上げたらどうですか。大きい店舗と住居を構える好機ですよ」総一郎は、この吉田新田に300坪を借り、石炭置き場と住居を造りました。後の寿町と呼ばれる町です。「稼ぐに追いつく貧乏なしだ」順調に商いが回復し、次なるビジネスを探します。

 ここで、始めてこの連載を目にされた方への途中総括です。浅野総一郎は、大借金で夜逃げしたことは事実ですが、彼は生涯かけて様々な機会をとらえて、故郷の発展(これから語ります)に尽くしたことは忘れないで下さい。故郷での失敗は、事業家・実業家として成長するための高い月謝でした。目のつけどころが他人と全く違いました。

 今まで、薪炭・石炭それを使う瓦斯(がす)局は石炭商にとって大口顧客になるのは確実でした。ガスは今では暖房やガスレンジなどの熱エネルギーとして使われますが、当時は「灯り」でした。

 文明開化で横浜はガス灯が急増しました。横浜港は安政6年(1859年)に開港され、外国人居留地が出来、前年に米蘭露英仏(アメリカ・オランダ・ロシア・イギリス・フランス)との、修好通商条約に基づき、急増した外国人が不満に感じたのが、真っ暗闇になる夜の事でした。

 明治5年(1872年)10月31日馬車道や本町通りにかけてガス灯十数基が完成し、その2年後には、東京の銀座でも85基のガス灯が灯りました。ガス灯は、「文明開化」の幕開けです。

 総一郎は、明治8年(1875年)8月に瓦斯局の門をたたきました。しかし別の業者が、長期契約で納入していて空きはないと断られます。

 しかしそんな事で諦める彼では有りません、ここからが彼の凄いところです。窓の外に目をやると、何だかうず高く積まれた黒い山を見つけました。その山はコークスでした。

 次回はここから彼の更なる挑戦を見て下さい。

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