大磯・二宮・中井 コラム
公開日:2023.07.28
大磯歴史語り〈財閥編〉
第65回「浅野総一郎【15】」〈敬称略〉 文・武井久江
セメント業の参入のきっかけは、得意先をまめに回る総一郎は深川官営セメント工場に出入りし、官営事業というものは実にのんびりしたものと驚きました。働き者の総一郎には、全員が遊んでいるようにさえ見えたのです。
総一郎が明治4年(1871年)に薮田村から上京して来た頃、情報を得るためによく朝風呂に行ってました。その時に、とび職の人が「いかに東京が広くても、毎晩火事があれば、そのうち、東京の財産が焼き尽くされる」と、焼けない財産、焼けない家が必要じゃないかと、あの時に感じた直感から、耐火性の高いセメント業へと導くことになりますが、あれから5年、コークスを納入しに毎日のようにセメント工場に出入りしていましたが、明治10年代に入る頃、工場は経営危機に陥りました。
官営工場の払い下げは、日本が近代化する際に、重要な政策でした。政府は、明治維新の際に、旧幕府から多くの官営工場を接収しました。当初は、富国強兵のスローガンの下、直接経営していましたが、官僚は会社経営には素人でした。赤字企業が続出し、国の財政を圧迫し始めました。結果、政府は明治13年(1880年)工場払い下げ概要を発表しました。積極的に民間に売却するということです。
種々色々な思惑の結果、渋沢栄一の力を借り、更に工部卿・山尾庸三(長州ファイブの1人で官営工場・払い下げに関しての最高責任者)の知遇を得て、明治政府は明治16年4月、深川のセメント工場を総一郎に「貸し下げ」しました。始めて聞く言葉です。こんな状態でも政府は強気ですね、貸し下げとは、払い下げの1歩手前の段階で、民間が最終的に事業として成り立つと判断した場合にのみ、払い下げるケースです。途中で採算が取れないと見たら撤退することも可能でした。明治政府として民間側に配慮した政策でしたが、問題点は最初の1年間は工場も敷地も無償で貸し出すが、その後の賃貸料が実に高いことです。純益の50%も取られます。
今回何故、セメント業の事をこんなに詳しく載せたかというと、彼が他の商人と肩を並べるには、リスクを伴うことに腹をくくらないといけない。三井・三菱などが財閥として規模を拡大していったのも、この官営工場の払い下げが要因です。特に、三菱の岩崎彌太郎を意識していた総一郎は「俺も払い下げで官営工場を引き受けて、一気に全国規模の商人になりたい」と決意を新たにしました。これがきっかけでセメント業の参入を成功させることが出来ました。又1段、階段を登る事が出来たのです。この時、日本で最初の「社内預金」も始めました。
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