大磯・二宮・中井 コラム
公開日:2023.09.08
大磯歴史語り〈財閥編〉
第66回「浅野総一郎【16】」〈敬称略〉 文・武井久江
浅野総一郎という人物は、一人では成り立たない。誰でもがそうですが色々な人に支えられ、仕事も出来、生きていける。浅野総一郎を「度胸人生」という人がいますが、彼に寄り添い支えた妻・サクは糟糠(糟糠は酒粕と糠でそれらを材料としたきわめて貧しい食事〜成功者において、不遇の時代に我慢強く見捨てず、夫を支え続けた妻)と言えるでしょう。
セメント業は当初貸し下げでした。2年後の明治16年4月16日、深川セメント工場が正式に払い下げられました。セメント業への参入は総一郎にとって大きな成功の一歩でしたが、官業払い下げは日本の経済史上特筆すべき事柄であり、産業史書の東京百年史の記事には、浅野総一郎は「確実なる営業人」とされています。当時、一民間人への払い下げは異例でした。「一介の燃料商人」に官営工場が払い下げられたと、世間では大騒ぎでした。
しかし総一郎は時に思わぬところに現れては既成概念を崩し、「歴史のかき混ぜ役」として話題になりますが、生活の安定・従業員の生活の向上をいつも願い改善します。
この時も、「民営企業として日本で初めて社内預金を実施した男」、賞与の一部を積み立て、十年継続したらさらにこれに同一額を支給、早い話が倍になる訳です。本当に何時も先を見ていますね。
そろそろ妻・サクの話に戻しますが、総一郎は職工と同じように働きますが、いやそれ以上で一番先に工場に行き、最後まで働く、その姿を見ている妻も同じに働きます。粉塵が舞い工場内の床面は熱く、とても草履では歩けません。職工は下駄をはきます。その下駄の消費量が多く、すぐ捨ててしまうのを見て、サクはその一つずつの鼻緒をすげ替えました。
それだけでも大変ですが、彼女の最初のお産が19歳でした。その後42歳までに12人の子を授かりますが、妊娠している時も常に夫の側で、仕事の補佐を続けます。想像しただけでも凄い事です。彼女の口癖が夫に何かあっても、明日から夫の仕事は引き継げますと、豪語するぐらい夫と二人三役で働きました。
更に、子育てだけでも重労働なのに、その上、浅野商店には住み込みで働く若者たちが大勢いました。彼らの食事の世話をするのも、サクでした。総一郎を表に出し、舞台裏はすべてサクが仕切りました。
総一郎にとって、サクは単なる「糟糠の妻」というより、「同志」のような存在でした。サクの最大の仕事は、総一郎を支え続ける事でした。彼のやりたい仕事は、全て温かく見守りました、まさに慈母のような存在でした。では、次回。
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