戻る

大磯・二宮・中井 コラム

公開日:2023.09.29

大磯歴史語り〈財閥編〉
第67回「浅野総一郎【17】」〈敬称略〉   文・武井久江

 今迄、大磯の著名人を数多く語ってきましたが、今回の浅野総一郎は、今迄の人の最多の回数になりそうです。

 私以上に浅野総一郎ファンが多く、タウンニュースにも投稿をお休みするとお問い合わせがあるとか、とても嬉しい事ですが、まだまだ語りたい方達が一杯いらっしゃいます。でも彼の事業の3分の1も語ってません。少し速足で進めますことお許しください。

 浅野セメントを始めて直ぐに、総一郎は体調を崩しました。工場内は、粉塵が飛び交い、空気は悪く、朝5時から工場に入り、陣頭指揮を執る総一郎は、喉を痛め、吐血しました。医師が診断し「このペースで仕事を続けては駄目だ」でも総一郎は、「仕事の為なら、倒れても構わない」「浅野さん、あなたは命と金とどっちが欲しいのですか」医師の言葉に総一郎は切り返します。「命よりも、金よりも、仕事が欲しいのです」

 そんな総一郎に新たな目標が出来ました。海運業への参入です。彼が富山に居る頃、夢見たのは「銭屋五兵衛」のように船を持ち海運業を始めたいと願うことでした。しかし、海運業には行く手を阻む「巨人」がいました。岩崎彌太郎です。この海運業への参入と岩崎との闘いを取り上げますととても長くなりますし、浅野総一郎のこの時点では、まだまだ岩崎に太刀打ちは出来ませんでした。

 渋沢栄一は合本主義、総一郎はこの考え方に共鳴。岩崎彌太郎は独裁体制の戦いになりますが、三菱商会と共同運輸(浅野総一郎を含む)泥沼化した値下げ競争、このままでは共倒れになる、そんな危機感から政府は仲裁に入り、両社を合併して明治18年に日本郵船を設立しました。総一郎は、この新会社への出資を求められましたが断わりました。

 彼はこの後、釜石製鐵所・三池炭礦の払い下げに失敗。中々払い下げのチャンスがありませんでした。ですがここで大きなチャンスが来ます。

 明治16年頃、磐城地方の有力者から磐城炭礦の開発の依頼でした。この磐城炭礦会社は、実は現在まで形を変えながら存続しています。現在の名前は、常磐興産株式会社。東日本震災以降、この会社がいわき市で運営するリゾート施設、「スパリゾートハワイアンズ」です。

 そもそも炭鉱の町だった磐城地方は石油へのエネルギー転換でさびれましたが、この施設がスパリゾートハワイアンズに名称が変わり、炭礦からフラガールの町へと変遷した磐城は、ここで最初に本格的な炭鉱開発を手掛けたのが浅野総一郎でした。次号へ。

ピックアップ

すべて見る

意見広告・議会報告

すべて見る

大磯・二宮・中井 コラムの新着記事

大磯・二宮・中井 コラムの記事を検索

コラム

コラム一覧

求人特集

  • LINE
  • X
  • Facebook
  • youtube
  • RSS