小学5年の時、父が亡くなり、身体の弱い母と妹たちと叔父を頼って中国・北京に渡った。昭和19年、徴兵検査を受け、済南で編成された59師団野砲隊に入隊した。
1年が過ぎた頃、戦況が悪化。防備要員として済南に向かう途中、終戦を迎える。同じ年の者たちが割腹自殺を図る中、最後の力を振り絞って北を目指した。武装解除され、隊は分断。命からがらナホトカにたどり着く。厳しい抑留の記憶はここから始まった。
寒い夜には外気はマイナス30度を超える。農作業やレンガ工場での勤務。室内勤務はまだましな方だった。200人いた仲間は半分以下に減っていた。与えられるのは300gの黒パンとわずかなスープ。栄養失調に陥る者も続出した。
飢えを凌いだのは自分たちでつくる雑草スープ。「葉の裏にはぎっしりと虫がついていてね。舌にあたる感触は今でも忘れられない」
ある夜、シラミがやけに自分の頬を伝うのが気になった。「おかしいな」。朝起きると隣で寝ていた仲間が死んでいた。「そうか。シラミは生きている人間しか狙わないもんな」。そうつぶやいたのを覚えている。人の死というものが身近にありすぎた。
2年半を耐え抜き、帰還した後もしばらくは飢えへの恐怖が拭えなかった。パンを見るといまだに「300g」の量を思い出さずにはいられない。「誰のが多いとか、少ないとか、そんなことが気になってしかたなかった」。消えない記憶を今も抱えている。
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