霧が丘在住の西岡洋さん(93)が6月2日、長崎県で8月9日(土)に開催される平和祈念式典で「平和への誓い」を述べる被爆者代表に決まった。長崎県に原子爆弾が投下された1945年8月9日午前11時2分。西岡さんは爆心地から3・3Kmの地点にある中学校内で被爆した。当時13歳。さく裂の瞬間、何を見て、何を感じたのか。6月10日、霧が丘地域ケアプラザで開催された講演会で被爆の実相を語った。
西岡さんは、昨年ノーベル平和賞を受賞した日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)を構成する団体の一つ「神奈川県原爆被災者の会」に所属。戦中・戦後の体験を語る活動を続けている。
長崎市によると、今年の同式典で平和への誓いを述べる被爆者代表を公募したところ、長崎県内外から12人が応募。被爆の実体験などを語った映像を元に審査会で選考が行われた。
その結果、「実体験の描写がとてもしっかりしており、訴える力がある」として長崎市は6月2日、代表者が西岡さんに決まったことを発表した。同市によると、西岡さんは過去の被爆者代表のうち最高齢で平和への誓いを述べることになるという。
友人からの勧めで応募したという西岡さん。代表決定の一報を受けたときの心境を「『あら、大変なことになった』と思った」と率直に振り返るも、「自分が体験したことしか言えないが、語ることには使命感がある」。式典に臨む思いをそう語る。
光の海
6月10日の講演会は霧が丘老人クラブ連合会(吉田待子会長)が主催し、「平和のつどい〜平和を考える戦後80年〜」と題して開かれた。大勢の来場者を前に、西岡さんは力強く語り始めた。
東京に生まれ、父の転勤のため長崎県に移り住んだ西岡さん。1945年8月当時は県立長崎中学校2年生だった。
「その瞬間」は校内で友人たちと過ごしていたときに訪れた。突然「部屋が光の海に浸けられた感じがした。『ピカ』というより『ドバッ』だった」。恐ろしくなり、とっさに両手で目と耳を覆い、床に伏せ3秒、4秒、5秒。「ものすごく長く感じられた」数秒間の静寂が流れた後「あれ?」。そう思った直後、凄まじい爆風が襲い、轟音と共に窓ガラスなどが粉々に砕け散った。「建物の中が一瞬、嵐に巻き込まれたみたいだった。私の上に覆い被さってきた皆は血だらけ。私は無傷だった」
無感覚
爆心地から4Kmほど離れた地点にある自宅は「無茶苦茶には壊れていなかった」。翌日も「無欠席を通したい」と登校した西岡さん。学校に着くと「先生2人、生徒5人でスコップを持って」救援隊として爆心地側に向かうことに。途中、大勢の人の亡骸を目にするも「『可哀そう』とか『何とかしなきゃ』という気持ちも起きず、無感覚で帰って来た」ほど、どうしようもない状況だったという。
講演会の来場者の中には、涙を拭いながら聴き入っている人の姿も。霧が丘在住の女性たちは「被爆体験を直に聞いたのは初めて。生々しくてびっくりした」、「戦争は嫌です。聞いていて胸が痛い」と話していた。
美しい地球を守るために
講演の翌日、西岡さんからタウンニュース緑区編集室に、平和への誓いを述べる者としての心構えを綴った以下のメッセージが寄せられた。
「唯一の被爆国である国の被爆者として、核兵器を使うということは、即、地球の滅亡を意味するということを、私たち人類は80年前の広島と長崎の原子爆弾によって、十分に知らされたのです。現代の核爆弾は、いかに凄い威力なのか、想像を絶するものです。今の世界情勢を見ると、核保有国は核の保有を誇示し、大変危うい状態であると思われます。絶対に核兵器を使ってはならない。核兵器を使ったらすべてがお終いです。この美しい地球を守らなければならないのです」(原文ママ)。強い決意が筆を走らせた。
戦中・戦後の激動の時代を生き抜き、子ども4人、孫10人に恵まれた西岡さん。80歳ごろには、「過去の戦争を見つめ、未来への平和をつくる」ことを目指す国際NGO「ピースボート」による国際交流の船旅に参加した。世界一周の旅の途中、出会ったさまざまな国の人々に被爆の実体験を語り、親交を深めた。
8月9日、長崎県で平和祈念式典に臨む。戦禍の実相を語り継いでいく使命感を携えて。
![]() 長崎県での爆心地と、自身が被爆した中学校の位置などを示す西岡さん
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