戻る

旭区・瀬谷区 社会

公開日:2025.08.14

戦火の中の「ぬくもり」
旭区の正純さん・淑子さん兄妹

  • 幼き戦争の記憶を辿る淑子さん(左)と正純さん

 旭区今宿南町在住の宮崎正純(まさよし)さん(88)と妹の粕谷(旧姓・宮崎)淑子(としこ)さん(85)は現在の東京都墨田区で生まれ、父母と4人で暮らしていた。1941年、父が出兵すると、淑子さんは母と一緒に東京から横浜市南区弘明寺に引っ越した。正純さんも同時期に祖父母が暮らす神奈川区六角橋に移り住んだ。

 小学3年生で学校集団疎開で神奈川県山北町に向かうことになった正純さん。見送られる最中にも空襲警報が鳴り響き、混乱の中で出発した記憶が鮮明に思い出される。

 親元を離れた疎開先での暮らし。周りよりひと回り小さかった体には堪え、いじめや食べ物が少ないゆえの餓えに苦しんだ。連日東京方面に向かう、数千機と思うほど多くの飛行機が空を覆う光景は強く印象に残った。

 現在88歳で元気に暮らしている正純さん。厳しい学校集団疎開の記憶を思い起こしながら、「物もすごく豊かでありがたい世の中で生きられ、そのことに感謝している」と目を細めた。

人々とのつながり

 45年5月29日の横浜大空襲時、母は姑の家に行っていたため、家にひとりでいた淑子さん。空襲を知らせるけたたましいサイレンの音が鳴り響いた。ドーンという爆音も聞こえ、爆撃がすぐそこまで迫っていると感じた。当時5歳で防空壕に逃げる気力も湧かず、ただふとんを頭に被り押し入れに身を潜めた。隣家の女性が探しに来てくれ、「私も一緒にいるよ。としこちゃん、一緒に死のう」と強く優しく抱きしめてくれた瞬間は今でも忘れられない記憶だという。

 その後空襲警報は鳴り止み、周辺は焼け野原になったが弘明寺はかろうじて免れた。次々に30人ほどの家を失った人たちが避難してきて、人々を受け入れ暮らし始めた。見知らぬ人も多かったという共同生活だったが、ひとりで過ごすことの多い幼少期だった淑子さんは「私はみんなが来てくれて嬉しかった。床に転がって一緒に寝た。布団なんてなくてもいい。一緒なら怖くなかった」と笑顔をみせた。

平和の尊さ、伝わって

 終戦から80年。戦争を知る人々の声は少なくなった。淑子さんは今、85歳になる。「亡くなる前にあの頃のことを一つ、書き残しておこうと思っていた」と語る。戦火の中、家も、着物も、命さえも奪われた時代だったが、淑子さんが忘れられないのは誰かと手を取り合って生き延びた「ぬくもり」だった。

 「今の平和が、どんなに尊いか。若い人たちに、少しでも伝わってほしい。それだけで、私は十分に幸せなんです」。彼女が抱き続けた思いは、決して押し入れの奥に眠ったままではない。

ピックアップ

すべて見る

意見広告・議会報告

すべて見る

旭区・瀬谷区 ローカルニュースの新着記事

旭区・瀬谷区 ローカルニュースの記事を検索

コラム

コラム一覧

求人特集

  • LINE
  • X
  • Facebook
  • youtube
  • RSS