戸塚区・泉区 社会
公開日:2021.08.12
学徒動員の記憶
「戦後初めてわかったこと」
戸塚町在住 桝谷朝子さん(93)
吉田町の「たばこや呉服店」の末娘として1928年に誕生した桝谷朝子さん。2人の姉、2人の兄がいる5人兄弟で、一緒に昆虫採取を楽しむなどして幼少期を過ごしてきた。
初めて戦争を意識したのは日中戦争が始まった37年のこと。当時9歳で、戸塚小学校での国語の時間に軍部に送る慰問文を作成することがあった。「兵隊さんが帰ってきたとき、『きみがこの慰問文を送ってくれたのか』と戸塚で再会したことを思い出します」
女学校3年で鶴見へ
小学校を卒業すると、県立横浜第一高等女学校(現・平沼高校)へと進学。しかし太平洋戦争が激化したことにより、女学校3年時に学徒動員で鶴見区の菓子製造業社へと通うことに。兵隊に渡す携帯口糧を作る仕事で、「軍服の胸に1食だけ入れて飛行機で突っ込む。つくるのが当たり前だと思っていました」。
一方で住まいのある戸塚は「田舎で」と空襲に遭うことはなく、あまり悲壮感を抱かずに過ごしていたという。「学徒動員のときの癒しは、友達3人でコーラスを歌うことでした」と振り返る。
大空襲を免れる
横浜大空襲の日は、司令部にいた兄の助言があり、「朝、のそのそと準備をしていたら空襲の警報が鳴って。これを聞いた人は鶴見に行かなかったの」。知り合いもみな無事だったが、仲の良い友達の両親は亡くなった。「横浜駅の裏口(西口)から見ると、ずっと向こうまで焼け野原。ああいうのをいっぺん見ると、戦争はやるもんじゃないなと思います」
8月15日の終戦時は17歳。当時の記憶よりも戦後、厚木から横浜へと向かうGHQの姿の方が色濃く覚えているという。「決して見てはいけないとお達しがあったけど、やっぱり見たくて。家のカーテンをめくると、ジープに乗るパイプを手に持ったマッカーサーがいてね。それがかっこよくて、ここで初めて『ああ、そりゃあ負けるよ』と実感したんです」
あれから76年。いま思うのは「当時はちっとも戦争がだめとか思わず、当たり前だった」ということ。「いまはいい時代よね。平穏に生きられるのが、一番幸せです」
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