横浜市会報告 関東大震災と横浜市会が果たした役割 横浜市会議員 鈴木太郎
今から101年前の1923年9月1日に関東大震災が横浜を襲いました。現在の横浜市庁舎は八代目の庁舎ですが、当時は二代目庁舎が被災しました。正午直前に大きな揺れが襲い、周辺の建物の多くが倒壊する中、庁舎は倒れなかったものの、しばらくして庁舎内で火災が発生。職員が必死の消化活動を続けました。一旦、消火しても別のところで火の手が発生するなど徐々に庁舎内に延焼し、退避せざるを得なくなりました。こうして二代目庁舎は震災後の火災によって焼失しました。
当時、52名いた市会議員は、それぞれの地元で被災者対応に奔走していたそうです。庁舎が焼失する中でも、横浜の復旧・復興に向けて市会を開かなければなりませんでした。
仮庁舎の屋上で
発災後初の市会は、9月11日に仮庁舎の屋上で開かれました。通信手段も復旧していない中で、39名の議員が参集。この時、6名の市会議員が震災の犠牲になったこともわかりました。当時の市会議長は平沼亮三氏、後に横浜市長にもなった平沼議長のリーダーシップのもと、この後の横浜の復興に資する重要な事が二つ決められました。
一つは、横浜の復旧に関する判断を市長に一任すること。市会で議論し議決していかなければならない事項も、その判断を市長に一任することでいち早く復旧していくことを優先しました。
もう一つは、国が進める帝都復興計画に横浜を含めるべく政府に働きかけることです。震災後、国は首都東京の復興のために、横浜港を閉じて東京に港をつくれば良いという議論が沸き起こっていました。横浜港が国から見放されてしまっては横浜の将来は非常に厳しいものになりかねません。何としても帝都復興計画に横浜を含んでいかねばならないと考え、市長と市会とが要望行動を繰り返し、最終的に横浜を含めた復興が進められることになりました。
こうして山下公園が整備され、横浜駅も現在の場所で整備されることになりました。歴史を振り返ると、現在の横浜の繁栄は、関東大震災から10日後に仮庁舎の屋上で開いた市会で決めたことが礎となっています。先輩諸兄の営みに感謝し、今の時代に必要な防災対策を講じていく決意です。
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