戸塚区・泉区 社会
公開日:2025.08.21
長野の村、火のない戦禍
黒岩 重雄さん(泉区)
泉区ゆめが丘在住の黒岩重雄さん(87)は、長野県の農家に生まれ、戦時下を過ごした。
爆撃や焼夷弾などの被害を受けることはなかったものの、戦争は確実に日常生活にも影を落としていた。黒岩さんは「今じゃ考えられないことばかりだね」と振り返る。
あの時の”当たり前”
7人きょうだいの3番目だった黒岩さんは、当時小学生。「男は戦争に行くのが普通。兵隊になるのは当たり前だった」。幼いながらも、その意識があったという。
父は身長が低かったため徴兵されることはなかったが、10歳ほど上の兄たちは自ら進んで兵士になることを志したという。「後から聞いた話だと、志願に必要な書類を勝手に出そうとして母親に怒られたらしい」
そんな母親でさえも、万が一に備えてなぎなたや竹槍を練習していた。黒岩さん自身も小学校で、爆撃機が来た場合の避難訓練を授業で何度も教わったという。「親指を耳に入れて、残りの4本指で目を隠して、木の中にうずくまるんだよ」。日常のすぐ隣に戦争の脅威があった。
「何もかもが足りない」
記憶に色濃く残るのは、あらゆるものが足りなかった生活。校庭はいつの間にか芋を育てる畑に変わり、学用品や服は配給制になり、最低限で日々を過ごした。
「鉄砲玉や機関銃をつくるために、農具も差し出した。火の見櫓の半鐘まで取られてしまった」。戦争が激しくなるほど、自分たちの生活は苦しくなっていった。
村育ちの黒岩さんは、多数の疎開者の姿も見ていた。豚小屋や鳥小屋を家の代わりにして、少ない食料を分け合っていた同世代の子たちを思い出し、「うちだってやっとの生活なのに。あの子たちはどんな思いだったか……」と思わず声を詰まらせる。
故郷を離れてから、長野県には政府機能移転のためにつくられた「松代大本営跡」や、戦没した画学生の作品を展示する「無言館」などがあることを知り、何度も足を運んだ。身近な場所にある戦争の傷跡を見て、当時のことをより一層知りたくなったという。
自宅には戦争に関連した新聞記事の切り抜きや、自身の記憶の限り当時を思い起こしたメモも多数保管する。「若い世代にも伝えたい。人間は考えることができるんだから、話し合いで解決しなきゃ」と強く訴える。
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