1942年8月、金沢区にある富岡総合公園に基地があった横浜海軍航空隊(浜空)が南洋の小島・ツラギ島(ガダルカナル島から北方約45Km)で数人を残し玉砕した。戦争終結から75年。かつてツラギに滞在し遺族らの遺骨収集を手伝った金沢町在住の嬉(うれし)昌夫さん(88)に話を聞いた。
軍艦の設計士だった嬉さんは60歳の定年後、JICAで造船技術を伝えるため1991年から2年間、ツラギに滞在した。工場の裏山には日本軍の洞窟がいくつも存在し、今も遺骨が眠るかもしれないという状態。「戦いのことは知っていたが、戦後50年でもう痕跡もないだろうと思っていたので驚いた」。さらに、ガダルカナルにも多くの遺骨が放置されている事実を知り、「これは大変な所にきた」と痛感する。
現地の案内係に
ツラギに配置された浜空の任務は、飛行場適地を空から調査することなどだった。ガダルカナルに適地を見つけ建設が進むが、完成1週間前の8月7日、米軍から攻撃を受ける。無防備のガダルカナルは無血占拠され、ツラギの浜空隊員らも2日間の戦闘で全滅したとされる。日本軍はその後もガダルカナルに3万3千人もの兵を投入。しかし物資の補給ができず、飢餓とマラリヤで戦闘による死者よりもはるかに多い、約1万7千人が命を落とした。「餓島」と呼ばれるゆえんだ。
嬉さんの滞在時は、その戦いから50年の節目。多くの旧日本軍の生き残りの人が、「自分は戦友を塹壕に残したまま逃げて生き残った。せめて、戦友の遺骨を探して日本に連れて帰らないと自分は死ねない」という思いを抱え、自費で訪れていたという。嬉さんは「現地の日本大使館は多忙を極めていたため、私も臨時の大使館員となり、現地のご案内などをしました」と振り返る。
あちこちに骨や遺品
嬉さんは2年間で約50回、ガダルカナルを往復。多くの生き残りの人と密林を歩き、遺骨や遺品を集めて回った。遺骨は、あちこちに放置されていたという。「最初は涙が止まらなかった」。ビニール袋に骨を入れて、一杯になったら大使館に持っていく――。その繰り返しだった。
密林では、よくヘルメットが密集して捨ててあった。生き残りの人が「食べ物がなくて、重くて被ってられなかった。ヘルメットだけじゃなく、剣などみんな捨てたよ」と理由を教えてくれた。戦うどころではない状態が痛ましかった。
そんな体験から嬉さんは、「遺骨収集・慰霊のツアー・国際協力」の仕事を全力でしようと心に決める。「人生でこの2年間ほど懸命に働いたことはない」と話す。
伝える難しさも
ツラギ赴任後も、慰霊ツアーの同行や講演会など関連活動を続けた。現在は日本・ソロモン友好協会の理事も務める。
また、西柴中学校の総合学習で長年、戦争の話をしてきた。「それでも思ってしまうんです。気持ちを伝えるのは無理なんじゃないかって」。平和は、口でいっても、憲法で書いても、それだけでは実現できないとも。もどかしさを感じながら、「何も言わないでおくのは違うかなと思う。せめて10%でも思いが伝われば」と話した。
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