保土ケ谷区 コラム
公開日:2026.01.15
「保土ケ谷区史」と歩く歴史の散歩道
第2回『保土ケ谷宿とご朱印状』 寄稿 金子宣治
保土ケ谷は1601年、幕府から「御伝馬の定」が与えられ、保土ケ谷宿が正式に成立しました。この時、合わせて写真1の「伝馬朱印状」(「定」の位置に朱印が押してある)も下されました。
これには「この御朱印無くして伝馬を出すべからざるもの也…」と書かれています。つまり、このご朱印をもっていないものには馬を貸してはならないというもので、裏返せば、ご朱印を持って来た者(幕府の役人など公用通行の者)には無料で提供しなさい、ということです。
馬を無料で提供する見返りに、保土ケ谷宿は、馬一疋(頭)当たり土地50坪分の屋敷地にかかる年貢(地子)を免除されました(地子免除)。保土ケ谷では36疋(頭)常備したので、トータル1800坪分が免除されました。左下に平仮名で「ほとかや」と書かれていますが、これは「保土ケ谷」のことです。
さて、写真2は江戸中期の保土ケ谷宿の町並みを画いた保土ケ谷宿絵図です。茶色の線が旧東海道で、ほぼ現在の東海道線に沿っています。水色の線が帷子川で、茶色の旧東海道が帷子川を横切っているところが今の天王町駅前で、ここに浮世絵で有名な新町橋(帷子橋/写真3)がありました。
江戸時代、帷子川は今とは正反対の、相鉄線の南側、つまり保土ケ谷駅側を流れていました。なお、帷子川の改修工事が始まったのは、昭和30年代後半のことです。
旧東海道は、新町橋を越えてからはまっすぐで、大門通、保土ケ谷駅前を通り(現在の大踏切の手前を左折して金沢、浦賀方面への)金沢鎌倉道を左に見て、軽部本陣に来て、ここでほぼ直角に曲がって岩崎ガード前を通り、江戸を出発した旅人にとって初めての難所、権太坂に至ります。
当初、保土ケ谷宿は、帷子町のあたりと、権太坂の手前の元町の方とに二分されていましたが、不便だということで、1600年代の中ごろ、街道の整備と合わせて、元町の方が保土ケ谷に移って来たと伝えられています。
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