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保土ケ谷区 コラム

公開日:2026.02.26

「保土ケ谷区史」と歩く歴史の散歩道
第3回『保土ケ谷本陣』【1】 寄稿 金子宣治

  • 明治初期の軽部本陣(軽部紘一氏所蔵)

    明治初期の軽部本陣(軽部紘一氏所蔵)

 宿場には、その運営にあたるため、問屋(人馬の継立や休泊の世話、旅荷の世話をする所)などの宿役人が置かれ、勅使、将軍や幕府役人、諸大名等が宿泊する本陣なども置かれました。複数の本陣がおかれる宿場もありましたが、保土ケ谷宿では本陣は一軒で、ほかに脇本陣が三軒ありました。

 寛永12(1635)年、幕府は諸大名に参勤交代を命じたので、街道は多くの大名行列が通り、賑わいました。

 そのような中、保土ケ谷本陣には、路程の関係で、毎年10大名家程度の宿泊のほか、紀州ならびに尾張徳川家はじめ、越前福井32万石松平越前守、讃岐高松12万石松平讃岐守など、休息の場として苅部本陣を利用する大名が多かったようです。一方、脇本陣は、多人数では本陣だけでは宿泊しきれない場合に利用されたほか、旗本たちはこぞってこの脇本陣を指定宿としたようです。

 ところで、保土ケ谷本陣軽部家(明治天皇御東幸の折、苅部から軽部姓に変更されました)の祖先は、小田原北条氏の家臣で、今の埼玉県寄居町の鉢形城城代家老を務めた苅部豊前守康則です。北条氏が豊臣秀吉に敗れた後、子孫の一人が、母親とともに領地のあった保土ケ谷に戻り、宿場の役職に携わることになりました。

 この際、住地が街道に面し、家作も広いことから伝馬朱印を授かったとされますが、幕府から正式に「本陣職」とされたのは、元禄のころと言われています。

 大小名などが宿泊の場合は、食器、食料、調理器具、生活用具一切を持参してくるので、本陣側は建物を提供するだけでした。また、宿泊者からは本陣に「謝礼」が支払われましたが、これはとても「対価」に見合うものではなく、一方、本陣の「格式」を維持するために多額の出費が必要だったことから、没落する家もありました。

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