寺尾稲荷考 左文字の墓と国産理髪鋏第一号 文・写真 鶴見歴史の会 齋藤 美枝
馬場の宝蔵院には墓石に鏡文字で「壽」と刻された「左文字の墓」がある。
左文字の墓には、正一位相国稲荷大明神をまつる寺尾稲荷社の神官を勤めた友野義全が眠っている。寺尾稲荷は、寺尾城五代城主諏訪馬之助が馬術上達祈願をし、小田原北条氏の家臣として勇名を馳せた。以来、馬術上達祈願所として武士の信仰を集め、東海道には「寺尾稲荷道」の道標が建てられた。
馬場一彌氏の「友野義国考」によれば、相国稲荷は江戸時代には「将軍家馬上安全の守護神として、徳川幕府から代々庇護を得ていた」とある。寛延二年(一七四九)に生まれた義全は嘉永二年(一八四九)に百歳の長寿祝いと、永年精勤に対し将軍家や寺社奉行などから白銀を下賜され、その目録が子孫に伝えられているという。百五歳の長寿を全うした義全の墓石に縁起の良い鏡文字が刻された。
義全の三代前の友野与右衛門は江戸浅草に店を構える絹布・両替商であったが、芦ノ湖から駿東郡深良地区へ潅がい用水を送る箱根用水の開削や安倍川の治水や新田開発などを行った人物。友野家の祖は、今川氏の庇護を受けた米・絹布を扱う駿河の豪商・商人頭で、室町時代には駿府に絹布を扱う友野座があったという。
義全の三代後の友野義国は、少年のころから名刀工固山宗次に師事した刀鍛冶であったが、明治四年の散髪脱刀令により、宗次一門と共に目黒の火薬庫や海軍工廠で鉄砲作りに精励した。明治十年、元髪結師から道具商に転じた人物が義国に理容鋏の試作を依頼してきた。フランスから輸入した一挺三円のハサミを参考に、義国は独創的なアイディアを付加した国産理容鋏第一号を完成させた。義国の理容鋏は、使い勝手も切れ味も輸入品を凌駕した。義国は明治十一年に理髪鋏製造工場を設立。弟子の教育には力を注ぎ、技術だけではなく日本外史の講義なども行った。礼儀作法も厳しくし、身なりも職人風ではなく、絣の着物に羽織姿、朴歯の下駄の清潔ないでたちで「書生鍛冶屋」とも称された。海軍工廠で扱った水力利用の旋盤まわしなどを参考に、新技術も取り入れた義国の鋏工場は相当繁盛し、旧主徳川家達公も立寄ったという。
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