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鶴見区版 公開:2013年5月16日 エリアトップへ

鶴見村 西洋野菜栽培事始め 文・写真 鶴見歴史の会 齋藤 美枝

公開:2013年5月16日

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明治四十年頃の總持寺移転地付近の野菜畑
明治四十年頃の總持寺移転地付近の野菜畑

 横浜開港後、鶴見区域では西洋野菜の栽培が始まった。明治時代に鶴見村戸長や鶴見神社宮司を勤めた黒川荘三の著書『千草』に、文久3年(1863)に、鶴見村でキャベツ菜と蕃茄(はんか)(トマト)の試作が行われたことが記されている。

 3月、鶴見村1010番地の畑仲次郎が、横浜元町の八百屋からキャベツ菜の試作を依頼された。渡された種を春分後にまいたが、失敗。翌年、寒暖の気候を計って種をまき、ようやく栽培に成功した。

 12月、鶴見村1472番地の小松原兵左ヱ門が、神奈川の慶雲寺に滞在していたフランス領事の野菜園を管理していた長澤屋某に依頼されて、横浜の八百屋仲間に「赤ナス親父」と呼ばれていたトマト栽培に取り組んだ。が、なかなかうまくいかず、元治元年(1864)にようやく収穫することができた。

 甘藍(かんらん)と呼ばれたキャベツが日本に入ってきたのは、1853年のペリー来航後で、居留地の外国人用に栽培されていた。トマトは、江戸時代中期に長崎経由で観賞用として伝わった。食用として栽培されるようになったのは、横浜開港後。

 トマトは花が咲いても実がならず、小松原家では、頭を抱えていた。そんなある日、暴風雨となり、トマトの枝が倒されてしまった。

 そして数日後、倒れた枝を始末しようとしたら、実がついていた。トマト栽培の先駆者は、トマトは芽かきをしなければ結実しないということを、自然から教わった。収穫したトマトは天秤棒で担いで関内の外国人居留地や中華街辺りに持っていくと高値で売れた。「担いで行ったトマトよりも、売上金の天保銭のほうが重かった」というエピソードが小松原家に伝えられている。

 明治18年(1885)7月15日、畑仲次郎と小松原兵左ヱ門は、鶴見村戸長黒川荘三から「西洋野菜栽培の先駆者」として表彰された。明治29年(1896)、子安村の清水與助が、日本で最初のトマトケチャップの製造販売を始めた。清水屋ケチャップは、宮内庁御用達にもなった。
 

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