「土木事業者・吉田寅松」【4】 鶴見の歴史よもやま話 鶴見出身・東洋のレセップス!? 文 鶴見歴史の会 齋藤美枝 ※文中敬称略
一つ目沼地埋立で横浜市街地造成
現在の横浜市中区と南区にまたがる地域は、江戸時代初期に江戸の材木商、吉田勘兵衛によって埋立て開発された「吉田新田」だった。
安政六年に横浜が開港してから、吉田新田は開港場となり、外国商館や洋館が立ち並ぶ外国人居留地に生まれ変わった。しかし、海に近い「一つ目沼地」と呼ばれる部分は、開港前まで遊水地として残されていた。
明治三年、神奈川県知事井関盛艮は、新しい横浜の街づくりを進めるために一つ目沼地の埋立を計画。運河の開削、谷戸の切り下げ、中村川の拡幅・浚渫、ふ頭建設などの土木事業は、吉田新田を開拓した吉田勘兵衛の子孫、八代目吉田勘兵衛と名主の吉田常次郎たちに請け負わせることにした。
明治三年四月、神奈川県庁から吉田勘兵衛、常次郎らに、吉田新田地内の沼地約七万坪の埋立を自費で行うようにとの命が下された。
八代目勘兵衛や常次郎らの手には負えない難工事だった。事業資金として三十余万円を準備しなければならない。常次郎は家政を誤り、家が傾きかけていた。
一族の命運にぎる
一つ目沼地開発事業は、吉田一族の浮沈にかかわる大問題となっていた。失敗すれば、家名に傷がつき、吉田新田を開いた初代勘兵衛にも申し訳がたたないと、八代目勘兵衛は一つ目沼地埋立事業から手を引いた。
吉田両本家には県の要請に応えるべき才覚も資金も乏しかった。
この難局を乗り切るために親戚一同が相談した結果、幼い時から人並外れた大胆な行動をとり、大志を抱いて若くして江戸に出て、その才覚で兵部省の御用商人となっていた、親戚筋の鶴田寅松の力を借りることに衆議は一決した。
名跡継ぎ、大事業成す
親戚間の大問題を知って駆けつけた寅松に、吉田勘兵衛の分家、吉田長兵衛の名跡を継がせ、吉田新田の全ての権利と義務、大工事の一切を委任した。
吉田姓を名乗った寅松は、誰もこのような大事業を成し遂げられるはずがないと人々が噂する中、悠々として蓬莱町に土蔵三棟、大きな住宅と商店、長屋などを建て、そこに居住し、木材の商売を始めた。
人々は、巨額の負債を抱えることになった寅松が、事の重大さにおびえ発狂したと噂した。
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