「土木事業者・吉田寅松」【9】 鶴見の歴史よもやま話 鶴見出身・東洋のレセップス!? 文 鶴見歴史の会 齋藤美枝 ※文中敬称略
横川・軽井沢間の碓氷線の難工事
吉田組は、鹿島組などと共に旧信越本線の横川・軽井沢間の鉄道工事も請負った。
上野・横川間は明治十八年に開通し、軽井沢・直江津間も明治二十一年に開通していたが、群馬県の横川から長野県の軽井沢の間には急こう配の碓氷峠があり、開通が遅れていた。
この区間は馬車鉄道で連絡していたが、碓井峠を越えるには二時間半もかかり、輸送量も少なかった。東京から新潟までの鉄道の全線開通が強く望まれていた。
二十六の隧道と十八の橋梁
横川・軽井沢間には難所中の難所、標高差五百五十三メートル、最大で六十六・七%(約三・八度)の急こう配の碓氷峠は、普通の粘着式鉄道では登り切れないため、ループ線やスイッチバックも検討された。
しかし、それらの工法では対処できないということで、ドイツの山岳鉄道で実用化されていた二本のレールの真ん中に歯車レールを敷き、専用の機関車にも歯車型の車輪をつけて歯車と歯車を噛み合わせながら登るアプト式が採用された。
碓氷峠を越えるので、碓氷線とも呼ばれる横川・軽井沢間十一・二キロのアプト式鉄道は、明治二十四年三月に着工。当時の土木技術の粋を集めた耐火煉瓦を積み上げる工法で、二十六の隧道(トンネル)と十八の橋梁が造られた。
濃尾地震がもたらした耐震のアーチ橋
工事中の明治二十四年十月二十八日にM8とも推定され、名古屋市街地を中心に、全焼失・全壊十四万戸以上死者七千四百人以上を出した濃尾地震が起きた。
この地震で多くの煉瓦造建物が倒壊したため、煉瓦造で設計されていた碓氷線の橋脚には、石柱を組み合わせて耐震性を高める工法が採用された。ほとんどの橋梁がアーチ形の美しい橋だった。
中でも、堅牢で美しい第三橋梁は、碓氷峠の「めがね橋」と称された。全長九十一メートル、川底からの高さ三十一メートル、二百万個以上の煉瓦を積み上げ、隅角部を切石で補強した四連アーチが特徴だった。
吉田組は、横川・軽井沢間第二工区の土木工事も請負った。第二工区がどの辺りかは不明であるが、吉田組も隧道の掘削や橋梁の建設に関わった。
この時の経験が奥羽本線の隧道工事に生かされていく。
碓氷線は、明治二十五年十二月に竣工し、明治二十六年四月一日、官営鉄道中山道線(後の信越本線)横川・軽井沢間が開業したことにより、東京(上野駅)から新潟(直江津駅)までの鉄道が全線開通した。
この結果、群馬県や長野県の生糸が大量に運ばれるようになるなど、近代産業の発展に大きく貢献した。
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