「土木事業者・吉田寅松」㉑ 鶴見の歴史よもやま話 鶴見出身・東洋のレセップス!? 文 鶴見歴史の会 齋藤美枝 ※文中敬称略
明治十九年にコレラ流行
明治十九年、吉田寅松の吉田組が長野県内の軽井沢周辺の道路改修工事や軽井沢・直江津間の鉄道敷設工事などを請負っていた。
この年、全国的にコレラが大流行し、十五万五千九百余人が感染、十万八千四百余人の死者が出た。長野県内でも多数の患者が発生した。
須坂市の歴史年表によると、八月に「須坂町にコレラが流行し始め、町村の出入口に厳重な見張番を置く」とある。須坂町では、多数の死者が出たため河川水の飲用を禁止し、基幹産業だった製糸用水の水門も閉鎖した。
製糸工場は一か月余りの休業を余儀なくされ、余った原料繭は諏訪や岡谷に送るという非常事態がつづいた。
各地に避病院の設置がすすめられた。寅松はコレラ対策病院費として、長野県に三十円を寄付し、木梨県知事より木杯一個を贈られている。
横浜でも三千百七人が感染し、二千二百十人が死亡した。久保山墓地に、明治十九年のコレラで亡くなった身元不明者三百余の残骨を慰霊する「悪疫横死諸群霊墓」が明治二十六年に建てられた。
『関口日記』には、明治十九年に鶴見村や生麦村でもコレラ病が流行したことが記されている。
七月七日夜、鶴見村でコレラ病による死者が出た。七月二十一日には、コレラ病が流行し、生麦の各町内に病人が出たので、滝坂不動のご神体を巡回させ、二十二日には、杉山神社のご神体を神主と村の月別当番が付き添って軒別に巡回させ、悪疫退散の祈祷が行われた。
二十六日には、コレラ感染者を入院させる仮病院に入院していた女性が死亡した。コレラの疑いで仮病院に入院した男性は、コレラではなかったので退院したが、前々の病気で重体。二十七日は病死した商家の娘の葬儀が行われたが、生麦村・鶴見村、子安村、白幡村四か村戸長役場の筆生(書記)だった関口昭知は、コレラ病対策のため、安養寺にあった戸長役場に詰めていて葬儀にも出られなかった。
さらに九月十五日にも南浜の娘がコレラで死去し、その隣の家の娘もコレラ病で入院した。
コレラは、激しい下痢と嘔吐を繰り返し、脱水症状により、短時日で死にいたるという恐ろしい流行病で、「三日コロリ」とも呼ばれ、恐れられていた。
黒船来航後、江戸にコレラが流行し、人々の交流や接触により各地に広がり、たびたび流行を繰り返していた。
明治十五年にも全国的にコレラが流行し、生麦村にもコレラ患者が出たことが『関口日記』に記されている。
五月二十二日の夜本宮町より疫病を送り出し、七月二十八日は午前よりコレラ病の件で役場へ集会、八月十五日には悪疫流行につき町内神明宮へ湯花を上げた。
九月二十六日には、コレラ病が各地に流行したので、村祭りを延長してきたので、「本日鎮守に湯花を上げる」とある。
特効薬や治療もままならぬなかで、猛威を振るう流行病を恐れる人々は、神仏に祈り、疫病退散の加持祈祷にすがっていた。
明治十九年に生麦の町内を巡回したと記されている滝坂不動のご神体の不動明王は、行基作と伝えられている。岸谷一丁目、岸谷生麦線の岸谷生麦入口付近にあった瀧坂不動は、古くから地域の人たちの信仰を集めていた。
明治十九年には、コレラ患者のために新規の仮病院が作られているが、これらの建設費や診察、往診の費用などは、義援金によってまかなわれた。
寅松がコレラ対策病院費として、長野県に寄付した三十円も避病院の建築費などで有効に使われたにちがいない。
ちなみに、コレラの予防法として、新型コロナ感染症の予防対策にも通じる「清潔」「室内換気」「適度な運動・節度ある食生活」などが推奨されていた。
『日本鉄道請負業史 明治編中』によれば、明治二十九年に鉄道工事に従事した「組立工」の賃金は一円から一円五十銭、「工夫頭」は六十五銭から八十銭、「土方」は三十五銭から六十五銭、「女人夫」は二十五銭から三十銭とある。
寅松が長野県に寄付した三十円は、日当一円で一番賃銀の高い組立工が一日も休まず一か月働いて得られる金額に相当する。明治時代の一円は、現在の二万円ぐらいの価値があったという試算もある。明治十九年の三十円は、現在の貨幣価値に換算すると五十万円ぐらい?
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