「土木事業者・吉田寅松」34 鶴見の歴史よもやま話 鶴見出身・東洋のレセップス!? 文 鶴見歴史の会 齋藤美枝 ※文中敬称略
土砂運搬車輛創案
「トロッコ」の原型は、初代名古屋駅(当時は名護屋駅)建設の土木工事から生まれていた。
吉田寅松の吉田組は、明治十九年に開業した名古屋駅の地築工事を請け負った。開業当時の名古屋駅は、現在の名古屋駅より二百メートルほど南に位置した葦の生い茂る湿地に建設されることになったが、近くには埋立用の土砂を採掘する適当な土地がなく、三キロ以上離れた古渡から運ぶことになった。熱田から名古屋に至る現在の金山駅周辺、熱田台地の高い土地を開削して線路を通し、この台地から切り取った土砂を名古屋停車場の埋立用土に使った。
六千三百余坪を切り通して採掘した土砂をモッコで担いだり一輪車に乗せたりして三キロメートル以上の道のりを運ばなければならなかった。多くの労力と資金を投入しなければならない。請け負った金額では採算が合わず、非能率的で工期も大幅に遅れていた。
寅松は一計を案じた。鉄道局から車両車軸を借りて、その上に木箱を取り付けて土砂を積む土砂運搬車を創案した。吉田組も請け負っていた名古屋・豊竹間に敷設されていた建築資材運搬用の軌道を使うことを鉄道局の木村三等技師などから許可を得た。吉田組が考案した土砂運搬車両が短時日で大量の土砂を運搬するこができ、名古屋駅の土木工事を竣工させた。名古屋駅は、熱田駅より一か月遅れではあったが、明治十九年五月一日に開業した。
不当な命令
名古屋駅の土木工事で吉田寅松は巨利を得たといううわさが流れた。この噂を信じた鉄道局の松田周次権小技長は、寅松に「鉄道局の器物を利用して不当な巨利を得ることは穏当ではない。その使用料を納めよ」と命じた。寅松は、その命令を不当として弁明したが、権小技長は頑として受け入れなかった。
松田周次は、四国高松藩の出身で、慶応元年、十八歳の時に長崎に出て洋学を学んだ。明治四年、文部省海外留学生としてイギリスに留学し土木工学の研究をし、明治八年九月に帰国し鉄道寮技師となり、鉱山や鉄道などの仕事で手腕を認められ、勅任技官となり、東海道線の工事に携わっていた俊才で誠実な人物だった。
権大技長の仲介
寅松が、不当の命令に対して弁明していた時、たまたま神戸から鉄道局の権大技長飯田俊徳が名古屋駅の工事の進捗状況を検分するために名古屋に来た。
飯田俊徳は、長州萩藩の出身で、吉田松陰や大村益次郎に師事し、高杉晋作が率いていた騎兵隊にも参加した俊才であった。慶応三年十二月に藩命で長崎からアメリカやオランダに留学。明治六年帰国後に工部省鉄道局に入り、鉄道権助として京都・大阪間の鉄道建設に従事し、日本の鉄道の父・井上勝とともに鉄道建設に深くかかわっていた。日本最初の鉄道技術者養成機関として大阪に設立された工技生養成所で多くの鉄道技師も育成した。明治十一年に着工し、明治十三年に完成させた東海道本線の京都・大津間にある逢坂山トンネル建設では総監督をつとめた。この逢坂山トンネルは、日本人だけの手で竣工させた初めてのトンネルだった。
井上勝の子飼いの土木工事業者吉田寅松と飯田俊徳は旧知の間柄だった。
明治十二年の北陸本線長浜・敦賀間の特命工事で、工期を見誤って請負業者から外され小川勝五郎の下請人とされたことがあった。このとき、その埋め合わせをするために寅松が横浜埋立地の使用権、自分名義の土地建物はもちろん、生家である鶴見の鶴田家の全財産を投じて、ようやく工事を完了させたことも飯田権大技長は知っていた。私利よりも公利を優先し、堅実な工事を竣工させてきた寅松を信頼していた飯田権大技長のとりなしで、寅松の弁明が受け入れられ、一件は落着した。
トロッコの誕生
寅松が創案し、名古屋停車場の土木工事で運搬効率を上げた土砂運搬車輛は、吉田組の植松甚助によって「土工用トロリー」に改良された。吉田組も請け負った常磐線の土木工事でも大いに効率を上げ、「トロッコ」と呼ばれるようになり、その後、トロッコは、鉄道や道路、トンネルなどの掘削工事で生じる土砂の運搬や炭坑から掘り出す石炭の運搬などで重用されるようになった。
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