「土木事業者・吉田寅松」35 鶴見の歴史よもやま話 鶴見出身・東洋のレセップス!? 文 鶴見歴史の会 齋藤美枝 ※文中敬称略
困難をきわめた奥羽線建設工事却下された山形県有志の悲願
上野駅を起点とする日本鉄道会社の奥州線(現在のJR東北本線・現在の始発駅は東京駅)は、明治二十四年九月一日に青森駅までの全線が開通した。
奥州線が終着駅の盛岡駅に向かって福島県や宮城県など東北各地で順次鉄道建設工事がすすめられていた明治十八年、山形地方の有志が資本金三百八十余万円で日本鉄道奥州線の支線として、福島・酒田間の鉄道建設を出願した。
明治政府には、太平洋側と日本海側を隔てる東北の脊梁奥羽山脈を越えての鉄道建設計画などはまだなかったため、山形県有志の悲願の支線計画は、線路調査未定として却下された。
明治二十年、山形県の有志と東京の資産家たちが資本金二百万円を集め、日本鉄道奥州線白石駅から羽州街道に沿って赤湯、山形を経て大石田に至る約百十二キロの鉄道敷設計画を立て請願した。
しかし、明治政府から白石・赤湯間の工事は困難をきわめ、二百万円の予算では建設できないとして経路変更を命じられた。
政府のすすめにしたがい、工事をしやすい、よりゆるやかな低地のおおい福島駅から米沢、赤湯、山形、新庄を経て酒田に至る経路に変更して改めて出願した。明治二十年九月に認可され、仮免許が下りたが、指定期間内に手続きが完了しなかったため、この計画も断念せざるをえなかった。
明治二十三年に福島県、山形県、秋田県の有志がそれぞれに郡山または白河から若松に至る線、米沢から坂田に至る線、新庄から青森に至る線を出願した。
鉄道局は、いずれの線も営業路線としては経営が成り立たないとして許可せず、「三県が合同して福島から山形、秋田を経て青森に至る三百余マイルの鉄道を建設すれば、建築費は約千二百万円もかかるが、営業路線として有望である」と示唆した。
しかし、三県合同の民間鉄道計画も成り立たなかった。
国営事業として建設
明治二十五年六月、「鉄道はすべて国営で行うべき」という鉄道局長官井上勝の提唱により、鉄道敷設法が公布された。その第一期の工事の中に、福島から米沢、山形、秋田を経て、青森県の弘前、青森に至る奥羽本線の建設計画も組み込まれた。
明治二十五年八月から十二月にかけて全線の測量が行われ、翌年の国会で千二百二十万円余の予算が付き、明治二十六年から明治三十七年までの十二か年継続の鉄道庁の事業として可決された。
奥羽山脈を越えて日本海側の最上川、雄物川、米代川、岩木川の豊沃な四大河川の流域を縫って走る東北地方の運輸交通の大動脈となる奥羽本線が建設されることになった。しかし、峻険な山を切り開き、深い峡谷に鉄路を敷設する工事は、豪雪にも阻まれ難航することが予想された。
福島駅から青森駅に至る奥羽本線は、湯沢を中心として南北二線に分け、福島・湯沢間は奥羽南線、湯沢・青森間を奥羽北線として工事をすすめることになった。
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