「土木事業者・吉田寅松」61 鶴見の歴史よもやま話 鶴見出身・東洋のレセップス!? 文 鶴見歴史の会 齋藤美枝 ※文中敬称略
ハイカラ紳士のベスト3
その後、後輪チェーン駆動、空気入りタイヤなど、乗り心地の良い安全な自転車に改良されると、華族、政財界人、高級軍人など、上流階級の間で自転車の一大ブームが巻き起こり、自転車は、猟銃、写真機と並んで「ハイカラ紳士の趣味ベストスリー」にランキングされた。
吉田寅松の三人の息子のような資産家の子息たちが自転車を愛用するようになった。彼らは「自転車乗り」と呼ばれるようになり、二十キロぐらいを集団で走る「遠乗り会」や、広場や原っぱで速さを競う「競走会」を楽しんだ。珍しい自転車を見ようと沿道や広場には見物人があつまった。
福沢諭吉の次男で父親が創設した時事新報の社長・福沢捨次郎も高名な自転車乗りだった。捨次郎は、イギリスから輸入した安全自転車ジェノーを百二十円で買って、時事新報の記者や社員たちにも安全自転車をすすめ、自転車乗りたちと自転車倶楽部をつくり遠乗り会を楽しんだ。三菱の岩崎久弥、三井の朝吹英次、福沢桃介など慶應義塾出身者を中心に、東大自転車会などからも合流し会員数十名の「日本輪友会」が生まれた。
商店主七、八十人で結成した「帝国輪友会」、明治座の長老河原崎権之助を会長に、二代目左団次(当時は市川筵升)などの役者・裏方・ひいき客など、会員百名は明治座のやぐら紋にちなんだ「桜輪会」を結成するなど、関東だけでも二十以上の倶楽部が次々に結成され、遠乗り会や専用コースでの競争会を開催するようになった。二六新報社長の秋山定輔が華族に呼びかけて創設した「大日本双輪倶楽部」には、有名な自転車乗り五、六十人が参加した。
森村開作の父、森村市太郎が二人の息子のために横浜の外国商館からだるま車を二台買おうとしたが、「注文は一ダース(十二台)にまとめてくれ」と言われ、真太郎ら自転車乗りの仲間たちもだるま車を購入し、遠乗りや自転車競走を楽しんでいた。
吉田寅松の三男鶴田勝三は、大日本双輪倶楽部に所属する花形の自転車乗りだった。
輸入自転車販売業
長男の真太郎が二十歳になったとき、寅松は、三人の息子たちに、「お前たちに数万円ずつの資金をやる。世の役に立つことなら何に使ってもよいぞ」といって、好きな事業をはじめることをすすめた。
銈次郎は、「ぼくは、二男なので土木事業ではなく自転車の仕事をしてみたい」といった。
真太郎と銈次郎は自転車乗りの仲間たちと相談し、横浜の外国商館まで見本車を見に行き、価格も安いアメリカ製の安全自転車、深紅色の一台二十円のデートン号を一ダース発注した。十二台は新し物好きの慶應の自転車乗り仲間たちの間で売切れた。明治三十年、自転車は売れると見込んだ三兄弟は父の資金提供を受け、銀座で自転車輸入販売業をはじめた。
寅松の息子たちが自転車の輸入販売業をはじめた明治三十年頃は、土木建築請負業者吉田寅松の絶頂期だった。
当時、吉田寅松は、日本有数の土木会社「吉田組」を一代で築きあげ、全国各地の土木事業を手がけ隆盛を極めていた。
還暦を迎えた寅松は矍鑠(かくしゃく)として元気はつらつ、新たな大事業への意欲は満々だった。妻の芳子と長女鶴子が家政を切り盛りし、長男真太郎は商業学校卒業後、二男の銈次郎と慶應大学に入学したが、二人とも二年で退学し、三男の鶴田勝三と兄弟三人で吉田組の支店として、木挽町に輸入自転車販売店「双輪商会」を開業した。
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