高津物語 連載第九〇一回 「加瀬山」
加瀬左近尉監資親は「山城国相楽郡加瀬郷ニ居リシユへ、在名ヲ家号トセルヨシ」と南北加瀬の地名が由来すると加瀬家々伝が伝えている。
川崎駅前アゼリア地下街建築工事の際の海面変動や多摩川下流域の様子が判明したという。
いわゆる「縄文海進」といわれる海面の上昇、地盤の沈降などのため、陸地の上に海の広がることや、間氷期には大陸の氷が解けて海進が起った長い期間中に、逆の「海退」も起こり一時海が引けて部分的に陸化した時もあった様だといわれている。(『川崎区の史話』川崎区誌研究会)
古代に入って古多摩川が運ぶ土砂や海流が押し上げる土砂の堆積が見られるようになり、多摩の横山の延長とみられる「加瀬山」(標高三十三メートル)が唯一西北部に孤立して、川崎の自然景観を形成していた。
がこの加瀬山が近代化の憂き目にあってしまう。
明治製菓の前身「横濱製糖」と東芝の前身「東京電気」が川崎進出したばかりの明治四十三年、多摩川大洪水は「多摩川の流路が南へ大きく湾曲した部分の低地に当たるため、一面に浸水した。このような事態を経験して、両者首脳の間には、一時川崎放棄の極論さえ現れる始末であった。しかし、水運と鉄道の便に恵まれ、しかも地価が安いという条件は軽視できなかった。そこで東京電気は、敷地一帯に二〜三mの盛土をすることによって、洪水時の浸水を防ぐことにした。
この土を求めるため、同社はまた石井泰助の斡旋で『加瀬山』の一角を買収し、そこを切り崩した土をトロッコで運搬するという大掛かりな工事である。
これに要した費用は買収価格を上回り、敷地一坪につき約二円にたっしたという。同社(東芝)は三工場に続いて本社の社屋も川崎の敷地内に建設し、大正二年に移転を終わった」(『川崎市史』―産業の発展と川崎市の誕生)
産業の発展には自然破壊もやむを得ないと云う人もあろう。南武線を北に向かう時、無残に切り崩された「加瀬山」を思う。
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