高津物語 連載第九二三回 「水害に苦しむ人々」
明治四三年(一九一〇)、ついに多摩川の水は、低い土堤を超えて氾濫した。
七月は例年にない長雨で、八月は多摩川大洪水によって稲田村下布田堤防は、約一二〇間(二一〇メートル)押し流され、中野島・登戸・宿河原・堰・長尾・久地の村々を押し流した。
この為、中原村でも、上丸子と平間の間の九四五メートルの堤防が決壊して、宮内・小杉・上丸子の村々が酷い被害を受け、田や畑の作物が全部押し流されたという記録がある。
この時の体験を小杉郵便局長で『待望丸子橋』の作者、安藤安さんは「夜半に坊やの寝小便で布団が濡れたのか寝ざめてみれば、驚くなかれ床上三寸(九・九センチ)の浸水であった」と書き残している。幸区の御幸村も全村が浸水し、田や畑がやられ、下流の川崎町、大師村も例外ではなく、大師の人々は早鐘を打ち鳴らして多摩川土手に集まり不安に包まれて、ただ荒れ狂う洪水を見守るばかりであった、という事である。こうして、明治四三年の未曾有の大洪水は、多摩川の堤防を決壊し、多くの生命と財産を一瞬のうちに飲み込んでしまった。(『やさしい川崎の歴史』小塚光治編、川崎歴史研究会)
当時の治水工事は水の流れに逆らわないことを原則とし、堤防は曲流する水当たりの強い個所に堤防を築く「カスミ堤防」が普通だったから、現在の様に連続
して強い個所に堤防を築くだけで、とぎれとぎれの「カスミ堤防」が普通だった。
現在の様に連続堤で海水を閉じ込めるのではなく、増水すれば両脇の氾濫原に水を湛えて、徐々に洪水を押し流した。だから、増えた河水はたやすく沿岸に溢れ出て洪水となった。
田畑は水が引いても、流されて来た泥土の「えごみ」が堆積して、元通りの田畑に直すのには大変な労力が要ったようだ。
とりわけ、津田山の土砂が押し出されてきた、坂戸大谷戸、新城、上小田中、下小田中、小杉地区は、積った土砂の堆積の後に大変な労力を要した事だろう。
にも拘らず、片付けの済んだ後には、良質な稲毛米と麦の豊作が待受けていた。
|
|
GO!GO!!フロンターレ4月19日 |
|
GO!GO!!フロンターレ4月12日 |
|
|
<PR>
4月19日