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高津区 コラム高津物語

公開日:2016.04.08

高津物語
連載第九四〇回 「『海保青陵』のこと」

 『武陽玉川八景之図』の作者は海保青陵といい、略歴は次の通りである。



 宝暦五年(一七五五)丹後宮津藩家老の子として江戸に生まれた。



 宝暦六年(一七五六)二歳の時、父が藩の赤字財政立て直しに取り組み、その内紛のため隠居することになったので、家督を相続し同八年に暇が出ている。



 明和八年(一七七一)十七歳の時、尾張藩に召れる。



 天明元年(一七八一)丹波篠山藩主青山候の儒官(儒学を教授する官、儒学をもって官に使える者)。



 文明四年(一七九二)大阪で文法を講ずる。



 寛政八年(一七九六)京都に宿を移す。



 寛政十年(一七九八)『文法被雲』刊行。



 京和元年(一八〇一)尾張藩の儒者となる。



 文化一四年(一八一七)没。



 海保青陵は、上記のように丹後宮津家老の子に生まれながら、武士の倫理に対して痛烈な批判を展開した風変わりな人である。寛政元年(一七八九)三十五才で初めて京都に行くまで、青少年時代ずっと江戸生活を続けていた岩精(海保青陵)は、江戸から至近距離の大山街道溝口宿の日蓮宗宗隆寺の「階方」新左衛門宗隆、並びに神仏混淆の時代、日蓮宗宗隆寺と親密な関係にあった溝口神社松尾大明神講中世話人、神奈川宿の「海宝」蔵の親族を尋ねた。



 そして大山街道溝口宿名主、丸屋鈴木七右衛門宅にしばらく逗留し「武陽玉川八景之図」を描いたと思われる。その際文章を発表する時に用いる本名以外の名前、筆名、雅号、ペン・ネームとして「青陵岩精」を使ったと思われる。



 「氏はその人の血族姻族関係のつながりを示すを常とし、その名と相まって、その人と他とを識別するものとして、我が国の社会生活上極めて重要なもの」を重視して「社会生活上極めて重要なもの」、すなわち「武士の倫理」の対極にある普通の人々の「血縁、地縁」を何物にもまして重視して、それをこそ人間関係の最重要事項とした人であった。大山街道溝口宿の最重要人物こそ、溝口宿名主、丸屋鈴木七右衛門であった。

 

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