高津物語 連載第九四四回 「上作延三田正綱のこと」
旧橘樹郡向ヶ丘村上作延村に旧名家として知られる三田家がある。高見王から二十三代後の弾正忠氏宗は上野国、武蔵国の西武蔵を中心とした三田家五十七国の大守で勤王家であった。
三田家の系譜を見ると桓武天皇を祖として、葛原親王から高見王で平姓を賜り、高望王を三田家の祖とする由である。
三田正剛は、その上作延三田家に安政五年(一八五八)十二月二十五日に、生を受けた。
先代は三田伊右衛門正明と呼び、後長男にして幼名を金吾と称し、後に正綱と改名された。
祖先は嵯峨天皇第十二皇子正一位河原左大臣源融公の末孫、三田筑後守忠政と呼び、扇谷上杉家重臣だったという。
爾来(じらい)代を重ね、代々名主たる由緒ある家門として、土地崇敬の的となった。
幼にして笈(きゅう)を帝都に負い、小石川芳野宿に入りて漢学漢詩を修め、浅草の詩人鱸松塘(すずきしょうとう)の門に入り、高弟として重きをなした。
後神奈川県書記を拝命して精進する事年余、辞任後は専ら政治方面に活躍し、政友会神奈川県支部の元郎たり。
氏夙に公共方面に意を注ぎ、村政の改革振興を劃して寄与画策する所、頗る大にして、特筆すべきは明治八年開始されたる地租改正に際しては、村内の事務を掌して其の全部を完成せしこと、これなり。
資性剛直に謹厳子弟教育には一見識を有す。
趣味としては狩猟を推し京浜間に其の名高く同郡北部猟友会会長たる事久し。令閏名はフキ子、二男二女を挙げて賢なり。
と、その全部が「神奈川名誉録」にある。
三田家は桓武天皇・葛原親王・高見王から二三代後の弾正忠氏宗は、上野国西武蔵を中心とした三田領五七村の大守で勤王家だった。
三田正剛長男好氏は東大出身の農学士で、農業大学で教鞭を取った後、新潟、神奈川県技師を歴任し、正七位に叙せられたと、「神奈川県名誉録――橘樹郡之部」に搭載されていて、由緒正しい家柄である事が判る。
|
|
|
GO!GO!!フロンターレ3月22日 |
|
|
|
<PR>