郷土史には記録されない、たかつの記憶をたどる まちのこぼれ話 第3話 その2 青山 昭久さん
◆小学校の話
2年生になる時に高津小に移りました。当時の高津小はマンモス校で1学年10クラスほどありました。校舎は古かったですが大きな学校でしたよ。転校したばかりのころは友達から「砂利屋」って呼ばれてたなあ。戦時中、高津小は兵舎になって、九州の部隊が来ていました。方言で話すから、最初は何を話しているのかわからなかったです。兵隊さんたちは多摩川の河原に穴を掘っていました。その穴のことを「蛸壺」って呼んでいましたね。機銃掃射の時に避難するための、人間1人が入れるくらいの穴です。私たちは土を運んだりして手伝っていました。穴掘りの他に、河原にたくさん生えている松の根から松根油(しょうこんゆ)を採取していました。これは飛行機や自動車に使う、ガソリンの代用燃料になるんです。根っこを掘って車に乗せる、これが兵隊さんの仕事だった。手伝っているうちに兵隊さんとも仲良くなりました。
掘った後に土が残るから、そこをちょっとした田圃にして米を作ったりもしました。今の教育センターのところです。あそこも河原だったんです。できた米を仲良くなった兵隊さんに持って行ってあげるとすごく喜ばれましたよ。小学校の頃には、国道246号線や津田山陸橋、二子橋もまだなかったです。大山街道があっただけ。戦後、津田山の切通しを掘って、その土を埋め立てに使って246号線を作ったんです。
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