郷土史には記録されない、たかつの記憶をたどる まちのこぼれ話 第6話 その3 河原 定男さん
◆宇奈根に養鶏産業を興す
戦中から親父が、100羽くらい鶏を平飼いで始めていました。鶏はふすまなどを食べるので、小学校の頃は学校から帰ると、久地駅近くの田中さんという粉をひく水車小屋に行き、ふすまをわけてもらい、菜っ葉を混ぜて鶏にあげていました。
中学校卒業後は、農業を手伝いましたが、土地がたくさんあるわけではないので、自分で「バタリー」という下に竹ですのこを敷いた2段の鶏舎を建て、その後、養鶏が主になりました。畑で作る野菜の多くは鶏のエサ用でした。魚のわたなどと小松菜などを混ぜて作っていました。魚のわたは、東京の業者をオートバイで回り集める人が菅にいて、持ってきてくれました。
戦後は「野菜作りよりも稼げる」ということで宇奈根の全農家はうちの親父の指導で養鶏を始めました。うちは最大1万羽の鶏を飼っていました。鶏舎は3か所に分散し、三段鶏舎で、屋根はのこぎり型といって長く続いているんです。南から日が入るように工夫されていました。この形式は前にどんどん鶏舎を増やせるんです。鶏糞は千葉に売っていました。
ひよこを仕入れて温めて育てるのも大変でしたが、養鶏を一生懸命やっていましたので、親父は特に役職はやっていなかったですが、市長から新たな産業を根付かせ地域起こしをしたことが認められ、表彰されました。
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