郷土史には記録されない、たかつの記憶をたどる まちのこぼれ話 第14話 その3 岩崎 輝彌(てるや)さん
◆ご家族が戦争の犠牲に
終戦の年、私は5歳でした。その年の4月4日明け方4時にアメリカ軍のB29戦闘機が我が家の近くに爆弾と焼夷弾の雨を降らせました。その時の惨状は聞くところによると地獄のようであったとのことです。 私の兄3人(享年、長男17歳、次男14 歳、4男9歳)が爆弾で同時に死亡しました。その時、犠牲となった17人の死体はバラバラで本人確認ができないようでした。着ていた衣類の柄で、一つ一つの遺体にまとめたそうです。兄3人は、父が高津の町の消防団になっていたことから、高津の町が爆撃で真っ赤に燃えているとの情報で、責任感の強い父は、長男に「一足先に偵察に行って来い」 と命じたところ、弟2人が長男について行ったそうです。父が「ゲートル」を巻いていた矢先、物凄い爆音がして、その被害が起きたそうです。 爆弾が落ちると物凄い火花が出たそうです。瞬間、家に逃げた人が助かり「なんだ?」と家から出てきた人が爆弾の破片にやられて死んだとも聞いています。 父は、病身だった母に息子の無残な死体を見せたら、母が卒倒して死んでしまうという配慮から見せなかったと聞いています。 死体の処理は合同で火葬し、骨壷には、木の燃えかすと少しの骨のみだったそうです。 母は夕方になると、息子の3人の名前を呼んで泣いていたそうです。それは、お隣りの方から聞きました。母の嘆きを思うと胸が痛くなります。母は、まだ4人の子がいたので死ぬ訳にはいかなかったのでしょう。戦争の極限状況の中で、悲しみをこらえて生きていくより仕方がなかったのです。
GO!GO!!フロンターレ4月26日 |
|
|
|
GO!GO!!フロンターレ4月19日 |
|
4月26日