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高津区 社会

公開日:2025.08.08

戦後80年 戦禍の記憶【8】宮前区平在住 照屋 真次さん(84)
沖縄戦で九死に一生
「教訓生かして」

  • インタビューに応じる照屋さん

 1945年3月末から6月末にかけて、日本軍と連合国軍が沖縄本土を中心に地上戦を繰り広げた。故郷の宮古島は地上戦こそ免れたものの、日本軍の飛行場が標的にされ、激しい空襲を受けた。

 母に手をとられ防空壕に逃げ込む際、隣を走っていた男性に機銃掃射の弾丸が当たった。「みんな自分たちのことで精いっぱい。誰も助けることができず、男性が背負っていた赤ん坊の泣き声だけが響いていた」。戦争は多くの一般市民を巻き込み、山のように積まれた死体を目の当たりにした。

 ある日、上陸作戦があるという噂が流れ、防空壕内はパニックに陥った。「米軍に発見されるのを恐れた兵隊が、泣き叫ぶ赤ん坊の命を絶とうとした瞬間、母が私の目を隠した」。5歳児にとって、戦争の残酷さは衝撃が強く、「戦後10年くらいは悪夢にうなされた」。昼夜となく相次いだ爆撃の記憶は、今も消えることはない。

 そして8月15日、終戦を迎えた。「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び...」。防空壕の中で聞いた玉音放送は理解できなかったが、大人たちが笑顔で万歳している姿を見て、戦争が終わったことを悟った。「子ども心にうれしかった」と当時に思いを馳せる。

 米軍機が投下する「宣伝ビラ」を目にしたが、すぐに回収された。沖縄戦最大の悲劇「集団自決」や「対馬丸」の沈没の事実も、戦後になって初めて知った。「大本営発表は嘘ばかり。非国民と言われるので誰も反対できなかったのではないか」と回顧。沖縄戦では、多くの親戚が戦場へ駆り出された。「どうして死に行くのに、万歳して喜んでいるのか不思議だった。時代のせいだと言えばそれまでだが、やるせない」と語気を強める。

 高校卒業後、専門学校へ進学するためパスポートを使って上京した。その後、沖縄は72年に本土復帰を果たしたが、国土面積のわずか約0・6%にも関わらず、在日米軍専用施設の7割が集中している現状を憂う。「本土防衛を目的に捨て石とされた沖縄に、未だに多くの基地があるのはおかしい」。同胞の死を無駄にしないためにも、沖縄戦の教訓を生かしてほしいと願う。

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今年で戦後80年。体験者が年々減少し、戦争の記憶が風化しつつある。当事者の記憶を後世に残すとともに平和の意義について考える。不定期で連載。

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