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麻生区版 公開:2014年12月19日 エリアトップへ

麻生の歴史を探る 麻生郷〜本郷・堀内〜

公開:2014年12月19日

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麻生郷尊氏所領文書
麻生郷尊氏所領文書

 今に残る上・下麻生地内の地名を調べてみますと、下麻生に「国領」の小字があり、上麻生にも「こくりょう」と呼ぶ通称地名があって、それは現真福寺川から西、麻生川沿いの上麻生亀井、仲村境の耕地橋辺りまでがその地域となります。川崎市地名辞典では国領とは「中世国衙領の遺構」と記しており、したがって本郷とは国領だったことを意味し、尊氏は建武中興の恩賞で得た麻生郷のうち現下麻生の約半分、そして現上麻生亀井の全域を保寧寺領としたことになります。

 堀内とは辞典では武士の館、大きな建物のある所とされますが、上・下麻生には堀内の地名はありません。しかし隣接の早野には「堀内」という小字があり、「西の方一帯を言う」と記されています。西の方というと現東柿生小学校辺りを指し、この地は王禅寺の丘陵が鶴見川流域に張り出た低い台地で、古くから縄文、弥生の遺跡があり、平成5年体育館建設の調査では14〜15世紀の青磁器、祭事用の土師器などが発掘され、この時代、この地に有力な寺院があったことが証明されています。

 一方堀内を地名ではなく武士の館とするならば当時の往還(かながわ道)に沿う上麻生こくりょうの地域は鶴見川に面し地理的にも地形的にも恵まれた地勢の地で現月読神社から常安寺、そして「亀井館」への一連の地は郡衙に代わる郷の代官屋敷があったとしても不思議はなくとりわけ亀井館が注目されてまいります。この麻生郷本郷で当時乳牛が飼われ、税(乳牛役)があったことには驚きますが、調べてみると古来日本には牛が生息していました。家畜化は欽明天皇の御世(531年)仏教伝来とともに百済からの帰化人が牛乳の効力を教え、孝徳天皇(644)に牛乳から精製した酥(そ・チーズ、バター)を献上したのが始まりとされます。文武天皇の大宝律令(701年)における厩牧令(くもくりょう)では酥を医薬品として乳牛を飼育することを奨勧しますので、この地方の宮牧であった立野牧や石川牧などでは乳牛が飼育され、酥の生産があったに違いありません。平安時代この乳製品には貢酥(税)の制度(延喜式)が設けられ、全国に割り当てられた貢酥の記録が京都牛乳院に残されているそうです。しかしこの貢酥の制度は律令国家の衰退とともに衰退していきます。牧は荘園となって武士の発生を生み、武士は牛よりも騎馬を必要とすることに加えて食生活の変化もあって、酥の生産は減少し、室町時代には貢酥の制度は形骸化しています。従ってこの麻生郷本郷での乳牛飼育は小規模で、その終息期にあったのではないでしょうか。そのことは乳牛役と名を変えた貢酥が前年通り免除すると記された保寧寺文書で窺い知ることができます。

 麻生郷本郷の堀内とするところがどこであるかは今後の研究課題と思います。

 前述した東柿生小学校域にあった有力寺院は王禅寺ではなく薬師寺だったという説があます。王禅寺は人里離れた真言密教の大刹で、他宗(臨済宗)の保寧寺領付近に寺を建てるはずがなく、さらに元弘3年(1333年)新田義貞が焼いた寺は鎌倉幕府所縁の寺である薬師寺だったとするものです。

 この地の東、王禅寺6-9尾作家の屋敷内には今も「牛塚」と呼ぶ小祠があり、乳牛役、薬師寺とロマンを残し、下麻生国領に続く、だるま市で有名な木賊(とくさ)不動は応永年間(1400年頃)鎌倉公方の庇護で火伏せ信仰が始まったとも伝承されるなど、前述の上麻生こくりょうの地を含め、「堀内」は現在厚いベールに包まれています。

 文:小島一也 参考文献:「川崎地名辞典」「川崎市史」「日本人と牛乳」(森永乳業)

※小島一也さんが5日、亡くなられました。ここに謹んでご冥福をお祈りいたします。

麻生区編集室
 

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