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麻生区版 公開:2022年1月14日 エリアトップへ

柿生文化を読む シリーズ「鶴見川流域の中世」中世史料・資料の隠れた宝庫 恩田郷(その2)【2】文:中西望介(戦国史研究会会員・都筑橘樹研究会員)

公開:2022年1月14日

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写真 享保五年(1720)恩田村裁許絵図「青葉の村々と矢倉沢往還」より転載
写真 享保五年(1720)恩田村裁許絵図「青葉の村々と矢倉沢往還」より転載

 享保絵図に描かれた「人家」は恩田川を望む丘陵南側の緩斜面に沿った道(県道川崎町田線の旧道)や恩田川と並行して帯状に東西に伸びている。名主太郎左衛門家もこの一画を占めていた。この立地は恩田川の沖積低地にある耕作地を見渡し、日当たりが良く氾濫による水害から住居を守り、背後の丘陵と屋敷森が冬の季節風を遮る効果が期待できる。こうした集落景観の成立時期を考える上で参考になる事例が堀ノ内地区に残っていた。「部内第一の地」(字地書上)と言われた字堀ノ内は訴訟に直接関係の無い村の西側に位置するために享保絵図には描かれていないが、踏査すると杉山神社が鎮座する丘の麓に集落があり、台地の尾根筋には全長500mの空堀が「コの字」形に堀ノ内地区を囲みこむ様に延びていた(開発により消滅)。調査報告書はこの空堀に15世紀という年代を与えている。発掘調査にともなって中世の五輪塔の部材と応永十四年銘(1407)・享徳元年銘(1452)の板碑が出土している事から、墓地が存在した可能性もある。付近の杉山神社や墓地にも宝篋印塔の部材を見かける。これらの石塔類の部材は形態から15〜16世紀と考えられる事から空堀の年代と一致する。堀ノ内の地名から武士の城館を連想しがちであるが、中世考古学の研究によると集落を囲んだ領域区画と墓地は中世後期の村落景観であるいう。すると空堀に囲まれた空間は城館ではなく15〜16世紀に成立した集落の可能性がある。また、中世後期の「人家」はもっと少なかったと考えられるので、絵図の人家は割り引いて見る必要がある。

(つづく)

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