「許可がなければ一歩も入れなかったところに、堂々と入っていける。夢に見たことで、すごく感動した」。2017年4月、相模総合補給廠の一部返還に伴い、南北道路が開通したときの思いをそう話す。
相模総合補給廠は戦前、旧日本陸軍の造兵廠として開設。1949年に米軍に接収され、現在は在日米陸軍の主要な補給基地としての性格を持つ。敷地はJR相模原駅から矢部駅まで約214haに及び、長年にわたりまちを分断してきたが、14年に約17haが国に返還されている。
石井さんは長野県出身。三菱電機に就職後、相模原の工場での勤務のため市内に転居してきた。ベトナム戦争時には、まだ舗装がないガタガタの国道16号を通って戦車が修理のために運ばれてきたこと、その戦車を戦地に送り返すのを阻止しようと、住民を挙げた反対運動が起きたこと。すごいことをやっているな、と補給廠を取り巻く環境を「いち住民として見てきた」。定年と同時に自治会活動を始め、宮下地区の自治会長を5年務めたのちに、15年から小山地区自治会連合会の会長に。区域の約65%を占める補給廠を抱え「陸の孤島のような不便さを感じていた」という小山地区のまちづくりのため、活動を続けてきた。
「10年先見据えた方向づけを」
補給廠やキャンプ座間など、市内の米軍基地返還を求める動きは拡大。06年には同会としても「このまま黙っていたら100年先」をスローガンに掲げたデモ行進を敢行。米軍司令部や外務省への陳情を繰り返したほか、行政関係者を交えたまちづくり懇談会でも、10数年来にわたり返還への要望を続けてきた。それだけに、返還の第一歩となる南北道路の開通は思い出深い。昨年3月には東西道路も開通し、交通利便性は徐々に向上している。一方、陸稲や蚕で生計を立てていた宮下地区の農家約100軒が接収を機に田畑を取られ、居を移さざるを得なかった先人たちの過去もある。「住んでいた場所を追い出された先輩方はどんな気持ちだったか。そういう歴史的経緯があったことを忘れてはならない」と口を結ぶ。
全面返還を引き続き訴えながら、返還地を含めた広域交流拠点推進計画の今後を懸念する。「平成の時代にここまできた。新しい時代の希望として、活力があり、親しまれる駅前の一等地になるように、10年先を見据えた方向づけをしてほしい」
※このコーナーでは、相模原での平成史30年の特筆すべき出来事について、その関係者に話を聞き、当時を振り返ります
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