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さがみはら中央区 社会

公開日:2025.08.21

語り合う あの頃の日本
座談会「戦争体験と当時の暮らし」

  • (左から)加藤さん、高橋さん、小林さん、奥野さん

  • 加藤さん(左)と高橋さん/『絵で見る 幼子の戦争記憶』はWebで閲覧できる

  • 写真を手に当時を振り返る小林さん(左)と奥野さん

 終戦から80年が経った今、戦中戦後を生きてきた人たちは過去をどう捉え、未来に何を思うのか。千代田にある「社会福祉法人悠朋会千代田7丁目センター」でのつながりをきっかけに1931〜47年(昭和6〜22年)生まれの4人に集まってもらい、話を聞いた。

 参加者は、同法人理事の小林功さん(81)、緑区根小屋在住の高橋知夫さん(94)、星が丘在住の画家・加藤忠一さん(84)、そして千代田在住の奥野ミドリさん(78)。長年相模原市に暮らす4人が、同法人や小林さんを縁につながり、一堂に会した。

「軍国少年」

 満州事変が起きた31年に横須賀市で生まれた高橋さんは、数枚だけ残っているという幼少期の写真を手に、「いわゆる軍国少年として育った。当時横須賀はスパイ行為になるというのでカメラが持てなかった」と話す。

 「生まれた時から日本が正義、勝つんだと」。「欲しがりません勝つまでは」「月月火水木金金」「ぜいたくは敵だ」――学校や街中に掲示されたさまざまな標語を、今も鮮明に覚えている。音楽のテストは、戦闘機の音を聞いて当てるというもの。木でできた銃をかついだ旧制中学時代は、サーベルで殴られたこともあった。

 幼少期の暮らしはそこまで苦しいものではなかったと記憶している。「食事もそんなに困っていなかったし、皇紀2600年のお祝い(昭和15年に政府の主導で記念行事が行われた)もした。戦争は、日本の兵隊さんが外国でやるものだと思っていた」。しかし太平洋戦争が始まると、生活は徐々に苦しくなってきた。高橋さんが小学6年生の頃だった。

 横須賀では、42年の「ドーリットル空襲」の後、終戦間際の45年に空母艦載機からの機銃掃射が複数回行われたとされている。「横須賀は空襲されなかったという話があるが、実際はあった。何度も防空壕に逃げた」。戦況が悪化すると、14、15歳の少年たちが「海軍特別年少兵」として戦地へ送られた。先輩たちが志願して旅立つ姿に「俺も行きたいと考えて疑わなかった」という。中学2年生の時、高橋さんは「1学年の差」で戦地へ赴くことなく終戦を迎えた。

記憶がある最後の世代

 41年に生まれた加藤さんは「僕は5月生まれで少しだけ覚えているが、同じ学年の11月生まれの人は覚えていない。僕が戦争記憶がギリギリあるちょうど分岐点の年齢」と語る。それゆえ記憶を書き残しておく義務感を抱き、2022年に書籍「絵で見る 幼子の戦争記憶」を発行した。

 本の中には、福井県の立待村(現在の鯖江市)に生まれた加藤さんが4歳の時に目撃した「強烈」な光景が描かれている。45年7月19日の深夜、人口約10万人に対し9万人以上が罹災し、死者約1600人、負傷者約6500人を出した「福井大空襲」。加藤さんが住んでいた現鯖江市は、福井市の隣に位置する。その上空を、大量のB29が飛んでいった。「僕の本当の真上を超低空でね、非常に大きな音だった。隣町が赤くなっていた」。身体が小さかった父は、終戦間近になってついに徴兵されていた―。

 本の挿絵の中に、帰ってきた父を迎える一枚がある。「母の実家の前の道で、歩いて帰ってくる父を迎えた。この場面を今でもよく覚えている。母はおそらく泣いていたんじゃないかと思う」。80年が経っても、決して忘れられない記憶だ。

戦後の相模原「補給廠」の存在

 さくら通りを通る、日本のものとは大きさも頑丈さもパワーも違う米軍のダンプカー、星が丘小学校の校庭を整備する米軍のブルドーザー、街中の火事に駆け付ける補給廠の消防隊――。戦後間もない相模原で生まれ育ち、父親が補給廠の消防隊員だったという小林さんの記憶に残っている「米軍」「アメリカ」は、「頼りになる存在」だった。

 戦後、各地にあった軍施設はその多くが米軍に接収された。多くの軍施設が立地し「軍都」として発展してきた相模原も例外ではなかった。44年生まれの小林さんと47年生まれの奥野さんは、戦時中に相模陸軍造兵廠をはじめとする軍関連の施設や工場で働く労働者とその家族のために作られ、戦後は相模総合補給廠に勤める人たちが暮らした「星が丘住宅」で育った。共に戦争の記憶はないが、当時の相模原の様子はよく覚えている。「補給廠にはすごく大勢の雇用があった。さくら通りを自転車で行き来する人がすごく多かった」

 「星が丘にガスを引いたのも父、消防団を作ったのも父」。奥野さんの父は長年地域の発展に尽力し、1990年に発行された星が丘公民館地区の『地域史』編纂にも携わった石井伍郎さん。戦時下は徴兵によって北朝鮮にいたこともあったという。終戦後は補給廠や厚木基地に勤めていた。

 米軍の施設から珍しいものが手に入ることもあった。「衝撃を受けたのが、コカ・コーラ。甘いものがそんなにない時代だったし、次元が違う味に圧倒的なショックを受けた」と小林さん。奥野さんは「父がお土産でカステラや顔につけるクリームを貰ってきたりしてくれた」と思い返す。

 戦中戦後の時代に育った4人は、今の情勢をどう見ているのか。「迎合するというか、流されてしまう人がいっぱいいる状況に感じる。その風潮が、戦争に向かっている感じがする」と加藤さん。奥野さんは「父が入院していた頃、うなされて『撃ちたくて撃ってるんじゃない』って。戦争を思い出していたのかな」と目を伏せた。高橋さんは「自分で体験してきて、やはり戦争はやるべきじゃない」と言葉に力を込める。「そのままにしていれば侵略される世の中、それなりの防御はしないといけないとは思うが、とにかく戦争は反対。反対だけです」。80年が経ち体験者が少なくなった今、この言葉の重みは増している。

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