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"大野女子"の気質 街の未来を左右!? 相模女子大学教授・湧口(ゆぐち)清隆

公開:2011年7月21日

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 初めて相模女子大学を訪れる方からよく言われるセリフは、「相模大野ってすごい都会ですね。その割にキャンパスに入ると緑も多く、時間がゆったりと流れている」というものである。このセリフは相模大野の今と昔をうまく言い当てているように思う。

 相模大野の町の由来となる大野村が誕生したのは1889年。当時の相模大野はその名のとおりだだっ広い「相模野」であった。相模大野駅が「通信学校」の駅名で産声を上げたのは、相模原が軍都となり陸軍通信学校が開設された1938年のことである。

 通信学校が誕生しても町が大きく発展した訳ではなかった。1945年4月13日の空襲で寮生ら4人を失い、校舎を消失した帝国女子専門学校が通信学校跡地に移った翌年も状況は同じで、相模女子大学の学園史を読むと、移転に当たり「都落ち」に対する相当の決断が必要であったことが分かる。駅前に数軒の商店、所々に建つ兵舎という風景は、東京・大塚の地とは雲泥の差があった。現在の東京農業大学(経堂)や昭和女子大学(三軒茶屋)の地も移転候補に挙がっていたが、この決断なくしては1949年に相模女子大学と改称することもなかったし、町の発展は大きく変わっていただろう。学園史には、地元の方々が当初から大学の開設を温かく支援してくれたことが書かれているが、これが相生祭(学園祭)恒例の園児から大学生までが参加する市中パレード(=写真)につながっている。大学も近隣地域との交流に力を入れており、市民大学は半世紀近い歴史がある。

 相模大野の発展は、昭和30年代に入り近隣に多数の団地が建てられ、乗降客が大幅に増えてからである。さらに、1981年の米軍医療センターの返還後、都会的な町並みが出現した。その間、「相模女子大前駅」への改称話もあったが、諸般の事情で立ち消えになったといううわさ話も学内で耳にする。このことはグリーンホール相模大野の命名権問題にも関連している。

 相模大野は商業的に特異な町である。町田、相模大野と2駅続けて百貨店がある駅の並びは首都圏では他に例がない。しかし、横浜とつながりが深く若者文化の発展する町田と、藤沢、鎌倉等湘南地域とのつながりが深く、どちらかと言うとハイソな香りが漂う相模大野との間で、うまく差別化されているように感じられる。高度経済成長期に建設が始まった町田駅とバブル期に構想された相模大野駅では、開発のコンセプトも空間利用にも違いがある。相模女子大学、女子美術大学、北里大学等への玄関口となる相模大野駅は若者、とくに女子大生の利用が多く、華やかな印象があるが、財布の紐となると別である。少なくとも相模女子大生の紐はきつい。この7年間で大学正門前のスーパー、コンビニは2度閉店を余儀なくされているし、ロビー・ファイブや女子大通りの弁当店、カジュアル・ファッションの店も撤退している。価格だけの問題ではなく、価格と質のバランスや、商品が女子大生の琴線に触れるか否かが大切なようだ。駅ビルのステーション・スクエア内に出店した小田急百貨店も短期撤退を経験したし、当初、20代女性をメイン・ターゲットにしたX-siteもターゲットを変更している。現代の相模女子大生の気質は質素、堅実。危ないもの、分からないものには手を出さない。そのような女子大生三千数百人を迎え撃つ町、相模大野。再開発が進む中、今後の展開が楽しみである。
 

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