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厚木・愛川・清川 社会

公開日:2025.08.29

「樺太」がつないだ縁
厚木で対面 故郷をしのぶ

  • 笑顔で談笑する石山さん(左)と長田さん

  • 握手をしながら、再会を誓い合った

 タウンニュースの発行があった8月15日の朝、県央支社に一本の電話がかかってきた。声の主は下荻野に住む長田令子さん(93)。同日のタウンニュースのある記事を見て、いても立ってもいられず連絡をしたという。

 その記事とは「樺太で過ごした戦中戦後」。森の里の石山重次さん(95)が、樺太での思い出を語ったものだった。

 「私も樺太で生まれ育ったので、樺太の文字を見たら涙が出てきた。何とか石山さんにお会いできないだろうか」。そういう願いだった。

 早速、石山さんに事情を伝えると「ぜひに」と快諾。会う場所は石山さんがショートステイをしている特別養護老人ホーム「第二森の里」に決まった。

 8月20日、施設の車で送られ到着した長田さん。車いすに乗った石山さんが姿を見せると感激した表情を見せた。

 最初に長田さんがした質問は「樺太のどの辺りに住んでいたか」。長田さんは泊居(トマリオル)郡の泊居町、石山さんは真岡郡の野田町だった。「あら、お近くですね」とさらに親しみがわいたようだった。

 話題は戦争にも及んだ。石山さんの住む漁村でもある野田町は、ロシア兵が侵攻してきても一切抵抗をしなかった。網元だった石山さんの家にも否応なしにロシア兵が住むことになったが、それにも抵抗はしなかったという。

 長田さんの住んでいた泊居町は、終戦から2日後の17日、ロシア軍による空襲を受け、数軒先の民家が燃えたという。「終戦しても私はロシア兵が怖くて、家から出なかった」と長田さんは振り返る。長田さんの家では長男が徴兵され、次男は予科練に入っていた。長男は出兵前、母親に「日本は戦争に負ける。でも誰にも言うな」と伝えていたそうだ。

 2人が盛り上がったのが食べ物の話だ。ニシン漁師だった石山さんの家では、ニシンと数の子は食べ放題だった。「中でもミガキニシンは絶品だったね」と石山さんは笑う。また、タラバガニもよく取れたため「食べ放題だった」そうだ。

 長田さんもタラバガニは良く食べていたといい、「サイズが大きくて。子どもの頃は足を1本食べたら、お腹いっぱいになった」と笑顔で振り返った。またジャガイモなども豊富だったため、「食事には困らなかった」と口を揃えた。

 2人が帰国したのは戦争が終わってから2年後のこと。石山さんの家は漁師だったため、長田さんの家は姉が交換手をしていたため、なかなか戻ることが出来なかったという。真岡町を出発して丸2日間かけて函館まで向かうルートも同じ。その後、2人とも青森に向かったそうだ。

 「無事に日本に帰ってこられたことが何よりだった」と振り返る長田さん。家族にも、樺太にいたことは伝えていないという。「まさか厚木で樺太のことを話せるとは。今日は良い日になった」と2人はうれしそうに話し、最後は握手で再会を誓い合っていた。

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