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綾瀬版 公開:2017年7月7日 エリアトップへ

〈第34回〉渋谷氏ゆかりのコースを訪ねる34 あやせの歴史を訪ねて 綾瀬市史跡ガイドボランティアの会

公開:2017年7月7日

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渋谷氏の城跡と伝えらえる「早川城跡」
渋谷氏の城跡と伝えらえる「早川城跡」

 梶原景時、迂闊にも頼朝亡き後、鎌倉幕府内の幕閣の勢力争いが深く静かに展開している事は、感覚として肌で感じてはいたが…。その判断に、対応に決断の遅れがあった。

 頼朝随従以来、表裏無く仕え清濁併せ呑む度量が足りない面があったか!?景時に距離を置く側近・閣僚達も多くいた事だろう。それは二代将軍の座に就いてはいたが、閣僚達の合議の上でのみ政事が執行出来る頼家であった事、景時その事に配慮が届いていなかった。鎌倉の府に景時ありと謳われた武将・閣僚だったが…。永く頼朝の許で清廉を自負してきた習慣が情勢を見誤ったか、事も在ろうに頼朝の元側近・結城朝光の言動に疑念を持ち、頼家に奏上した。

 景時、朝光の母が頼朝の乳母の一人であった事、頼朝が朝光の烏帽子親となっていた事等、記憶になかったのか…。それとも朝光の罪科の追及に自信があったのか…。ともあれこの件、景時の朝光身辺調査の報は北条家の情報網に察知された。結城朝光、出自を問えば今は亡き頼朝とは深い絆があったが、祖は秀郷(ひでさと)流藤原氏小山家を本流とする名家の血筋だった。

 景時とて幕府を支えていく閣僚13人衆の一人だったが…。側近・閣僚達、一致協力していく前に乖離が進んでいた。景時この事、予想推測を出来ていたか…?能吏として、武将として、朝廷にまで聞こえた幕府の要人だったが、また多くの有能の士を幕府の名に於いて葬り去ってきていた。立場が違えば、見解が異なれば…。景時の処置処遇、鎌倉の武将・御家人達どの様な想いで受け容れていたのだろうか…?

 結城朝光よりこの事、告知相談を受けた三浦善村は景時弾劾のため幕府の主要閣僚・御家人達を糾合した。景時かくも人徳を失っていたか、誤解があったのか…!!頼朝逝去後、未だ1年も過ぎていなかった。人の心の移り変わり、頼朝の魂魄、鎌倉の上空で鬼哭していた事だろう。頼家に上程された弾劾状66名の署名があったと言われている。本来なら頼家、これを窘めて景時を補完すべき所、今は悲しくも合議制の上に傀儡する将軍だった。

 当然の事ながら、この弾劾状の中に渋谷高重の署名があった。梶原景時とは領地領土を接し、鎌倉の府における行事や例大祭等でも確執が生じていた事だろう。無益な私闘は厳に慎んできたが、今、渋谷氏の惣領として言動を慎みながらの勤仕。父・重国への畏敬の念を強く感じていたが、弾劾の会議の中でどの様な言動で、海千山千の閣僚や御家人達の前で、その存在感を示したのだろうか…!?

 【文・前田幸生】
 

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