横須賀・三浦 社会
公開日:2025.10.24
「横須賀空襲」迎撃を指揮した祖父
手記からたどる決戦の風景
終戦から80年の節目にあたり、政治やメディアなどあらゆる場で先の大戦に関する話題が取り上げられている。教育現場でも当時の記録を振り返る機会が設けられる中、我が家では小学6年生の娘が夏休みの自由研究として、彼女が生まれる前に他界した曾祖父の戦争をテーマに調べていた。そんな娘を手助けしようと、記者にとっては母方の祖父にあたり、旧日本海軍の軍人だった服部和彦(1919─2009)が遺した戦中の記録を綴った手記を読んでいたところ、横須賀空襲の迎撃に深く関わっていたことを知った。そんな折、横須賀・三浦編集室へ異動することになり、運命的なものを感じて祖父の足跡をたどってみることにした。(下村大輔)
大正時代の男性の平均身長が約160cmとされる中、178cmの長身だった祖父は運動神経抜群で、慶応義塾大学では体育会ホッケー部に所属。「法学部卒というより、ホッケー部卒という方が適切」と生前に冗談まじりに語っていたほど、一年の半分以上は練習に明け暮れる毎日だったそうだ。
映画や麻雀を楽しんだり、銀座の街に繰り出す級友たちをうらやましく眺めながらも、猛練習の甲斐あってホッケー部ではレギュラーの座を勝ち取り、全日本選手権優勝に貢献。そんな活躍が認められて日本代表候補にも選出され、1940年に開催が予定されていた東京五輪に出場するはずだった。しかし、日中戦争勃発などの影響から大会は中止に。檜舞台を踏む機会は訪れることがなかった。
繰り上げ卒業し海軍へ
日中戦争が長期化する中、41年12月には太平洋戦争が開戦。真珠湾への奇襲作戦成功を知らせるラジオ放送を大学近くの碁会所で聞いたという祖父は、「『いよいよ始まったか』という程度で、碁会所の中もきわめて冷静だった」と振り返っている。
ホッケー部のリーグ戦が終わり、本来であれば束の間の休息を楽しむ予定だった42年秋、勅令により半年間繰り上げて大学を卒業した。限られた学生生活が戦争により突然終止符を打たれることになったが、「五体満足なかぎり卒業すればすぐ兵隊。戦う者はわれわれの世代しかなく、誠に当然のことと受け止めていた」と海軍を志願。予備学生の採用試験に合格し、卒業からわずか4日後の9月30日に旧日本海軍へ入隊した。
祖父が遺した手記のタイトルは『はるかなり、わが青春』。明るい性格で仲間を大切にしていたことからも、生まれる時代さえ違っていれば、手記の内容は全日本選手権4連覇を果たしたホッケー部の八面六臂の活躍や、級友とのかけがえのない思い出話であふれていたに違いない。
息抜きに演芸大会
予備学生とは、旧日本海軍に設けられた将校を養成する制度。受験対象は大学や高等専門学校の卒業生で、超難関とされる採用試験に合格すれば一年の訓練を経て少尉に任官されるものだった。
狭き門を突破し、祖父とともに「第二期海軍兵科予備学生」として採用された学生は555人。約一年かけ、台湾の海軍航空隊で基礎教育、館山海軍砲術学校(千葉県)で術科課程を受ける。
機銃訓練や野外演習などスケジュールがぎっしり組まれ、肉体的にも精神的にも厳しい毎日。その合間には、息抜きとして歌謡曲や落語、ものまねなどを披露しあう演芸大会などが開かれて盛り上がったと手記に記されている。
配属は横須賀海軍警備隊
全課程を終えて発表される卒業後の配属先は、予備学生たちにとって最大の関心事。希望を事前に提出する際、祖父は「一身を犠牲にしても悔いはない」と、書面には敵と接する「第一線」と記した。祖父の父が総督府の官僚であったことから台湾で生まれ育った生い立ちもあり、特に南方を希望したという。
迎えた配属先の発表日。予備学生全員が集められて次々と配属先を命じられ、「そのたびに声にならないどよめきが、さざなみのように広がった」。激戦が続く外地に送られる者が多数を占める中、祖父が命じられたのは「横須賀海軍警備隊」。腎臓に持病があったことに加え、入学してくる第三期予備学生の教官を任せようということが、内地勤務を命じられた理由だった。
それから、購入したばかりの真新しい日本刀を手に、颯爽と北や南へ散っていく同期生たちを見送った祖父。その4日後、祖父がいつも連れ立っていた仲間の戦死の知らせが届いた。死地に赴くことにも「お先に行くぜ」と悲壮感なく出征していく同期生が多いなか、彼だけは「俺は死にたくないなぁ」と祖父に漏らしていたという。その後、終戦までに555人中106人が戦地で命を落とした。
第二海堡で排球
43年8月、東京湾に浮かぶ人工島「第二海堡」の防空砲台長に就任。部隊の編制や教育訓練計画の実施、新設された砲座へ高角砲を据え付ける作業などの任務で忙しい日々を過ごした。
第二海堡は横須賀鎮守府(現在のアメリカ海軍横須賀基地内の司令部庁舎)から近いものの上官が訪れることはなく、自身について「お山の大将ならぬ小島の大将だった」という。
母校の排球部からボールを分けてもらい、訓練後の「別科」として排球(バレーボール)に興じたり、爆薬を海に放り込むと浮かんでくるクロダイを捕まえて酒の肴にするなど、のどかな日常もあった。日々厳しい訓練も重ねていたが、「ここまで敵機が侵攻してくるようになれば、我が国もおしまいだ」と考えていたそうだ。
第二海堡で3カ月の勤務を終えると、館山海軍砲術学校の分隊長を経て、45年7月に再び横須賀に転任。いよいよ戦局が悪化する中で大きな編成替えがあり、手記によれば祖父は小原台・第二海堡・猿島・野島崎・金沢文庫の砲台を指揮下に置く第二高角大隊長に任命された※。
※注釈:横須賀海軍警備隊戦闘詳報には、小原台・第二海堡・猿島の各砲台は第五高角大隊の指揮下と記されている
荒ぶる横須賀の軍港
それからまもない7月18日昼前、横須賀市内に空襲警報が発令。午後3時30分頃から、約250機の米軍艦載機により空襲が始まった。いわゆる”横須賀空襲”だ。
防空指揮所の発令を受け、横須賀市が俯瞰できる金沢文庫周辺の高台にある砲台で指揮をとっていた祖父は、傘下の砲台へ「対空戦闘」を指示。辺りにはラッパの勇壮な音色が響き、張り詰める緊張感。手記には「機動部隊から発進した数百の敵艦載機で、大型双眼鏡の中が真っ黒になるほどだった」とある。
敵の狙いは横須賀軍港に停泊する戦艦「長門」。第一・第三高角大隊の対空砲火をくぐり抜け、横須賀上空でひらりと身を翻して長門を攻撃する艦載機。もはや個々の敵機に狙いを定める余裕はなく、大量の弾丸を撃ちまくる弾幕射撃で対応するしかなかった。
第二高角大隊では、横浜方面から低空で侵入してきた2機を野島崎砲台の射撃により撃墜。しかし、約40分間の空襲で長門以外にも駆逐艦や潜水艦など多くの船が損傷したほか、軍と民間人で50人以上が犠牲となった。海面には木片やドラム缶が漂い、大量の魚が白い腹を見せて浮き上がっていたという。
祖父を含む海軍の士官たちが横須賀鎮守府に集められ、玉音放送を聴いたのはそれから約一カ月後のことだった。
戦う理由は家族のため
終戦後は生命保険会社に勤め、退職後に新たな趣味として船釣りに出かけていた。よく利用していたのが、新安浦港を拠点とする釣り船「こうゆう丸」。猿島や第二海堡など、かつて命をかけて戦った場所を眺めながら釣り糸を垂れるのを楽しんでいた。戦争について自ら語ることはなかったが、酒を飲んで気分が良くなると軍歌を口ずさんでいたことを思い出す。
大学生活をアメリカで過ごした記者は、アメリカの人や文化の魅力について祖父に話すことがよくあった。「そうか」と耳を傾けてくれていたが、かつての敵国について内心ではどう思っていたのか。気になって尋ねた時の祖父の言葉が、脳裏に焼き付いている。
「アメリカが憎くて戦ったのではない。ただ、家族を守らなければならない一心だった」
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