逗子・葉山 社会
公開日:2025.07.11
戦争に翻弄された学び
逗子市在住 千田充子さん
逗子市は空襲を受けることなく、戦禍を免れたが、市井の人々の生活には戦争が影を落としていた。千田充子さん(98)は女学校時代を戦時下で過ごし、「学び」の時間を奪われた。今、100歳を間近に控え、勉強できることの喜びを感じている。
千田さんは父親が海軍の勤務で比較的恵まれた生活を送っていた。小学校は神奈川師範学校付属鎌倉小(現・横浜国立大学教育学部付属小)に通うと同時に、上野にあった東京音楽学校附属児童学園尋常科でピアノの授業も受けていた。同小卒業後、1940年に片瀬にある白百合女子学園に入学したが、児童学園高等科に通うのが大変で横浜紅蘭高等女学校(現・横浜雙葉学園)に2年で転校。しかし、次第に戦争が激しくなり、3年生の2学期からは学徒動員で勤労奉仕。東芝の川崎工場で通信機の組み立て作業に従事し、学校での授業は受けられなくなった。
勤労奉仕先で空襲
終戦の年、45年に女学校を卒業。「当時は学校を出ると徴用としてどこかに勤めなければならなかったが、母校の専攻科に進んでその任は免れた」。それでも引き続き学徒動員。作業場は横浜伊勢佐木町の野澤屋デパートに移っていた。5月29日、作業中に横浜が大空襲にあった。「焼夷弾による空襲で、『この建物はコンクリートだから大丈夫』と言われ、ブラインドを下げて暢気に作業をしていた」という。午後になって建物から出ると、まだコンクリートは熱く、左右を見渡すと死体がごろごろ。みんな「見ちゃダメ、見ちゃダメ」と目を瞑った。横須賀線に乗るために、電車が動いていた大船に向かって歩いた。途中、戸塚近辺で海軍のトラックが通りかかり、大船まで乗せてもらい、大船からは横須賀線に乗って逗子にたどり着いた。「新宿の自宅へ歩いていると、私の顔を知ってる人が家に連絡を入れていて、着くと家族が出向かえてくれた光景を今でも覚えている」。
学ぶ喜び再び
母校の校舎は空襲でなくなり、終戦後の学び舎は、隣にあったセント・ジョセフ・カレッジを間借りした形だった。それでも「ようやく勉強ができるようになって、痛い思いをしたこともケロリと忘れたようにうれしかった」と振り返る。
戦時中、勉強したくてもできなかったことを取り戻すように今も「学び」に貪欲な千田さん。一昨年、放送大学を96歳で卒業したが、次は心理学を学ぼうと再入学を検討中。100歳の大学生を目指す。
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