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鎌倉 文化

公開日:2014.02.28

頼朝が建立した幻の大寺院
永福寺(ようふくじ)に迫る 【2】
〜発掘で明らかになった全体像〜

  • 提供/鎌倉市教育委員会CG制作/湘南工科大学

 源頼朝は自らが攻め滅ぼした奥州藤原氏の鎮魂のために永福寺(ようふくじ)を建立した。室町時代に火災により失われた「幻の大寺院」の姿を追うこの連載コーナー。第2回では20年におよぶ発掘調査で明らかになった寺院の全体像に迫り、将軍家の誇った権勢に思いを馳せる。

(協力/鎌倉市教育委員会)

 永福寺は三つの堂を持つ壮大な寺であったと文献に記録がある。しかし室町時代に焼失したため、その規模や伽藍の配置などは謎に包まれてきた。

 発掘調査の結果、中央に「二階堂」、両脇には「阿弥陀堂」「薬師堂」があり、三つの堂が東を向き、南北一列に並ぶ独特の配置だったことが判明した。さらに池に向かい「翼廊」が延びており、両端には「釣殿」を備えた左右対称の「コの字型」の姿だったこともわかった。

 「釣殿」は貴族の邸宅である寝殿造に特徴的な建物で通常は寺社には見られないものだ。二代・頼家以下、歴代将軍は永福寺で花見や蹴鞠などに興じたという。寺院と、将軍家の迎賓館的な役割を併せ持つ鎌倉独自の文化を醸成する下地が創建時に整っていたといえる。

二階堂は高さ20m5階建てビルに相当

 堂の高さは建物の「基壇」の幅とほぼ同じと考えられ、「二階堂」は20mもの高さだったと推測される。これは5階建てビルに相当し、鎌倉時代では最大級の大きさ。文献に残る寺院の壮麗さを裏付ける結果となった。

 三つの堂に使われた礎石は早川・根府川上流の川原石。出土した瓦の中には埼玉や愛知で焼かれたものもあり、当時の頼朝の勢力をうかがい知れる。また、見つかっている瓦の種類から、屋根は一般的な寺院と同じ「入母屋(いりもや)」の構造だったと推定されている。

 連載第3回では、頼朝が極楽浄土を体現したという庭園について紐解いていく。

■史跡永福寺跡…鎌倉宮から瑞泉寺方面へ徒歩10分

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