源頼朝は自らが滅亡させた奥州藤原氏の鎮霊のために永福寺を建立した。室町時代に焼失した「幻の大寺院」に迫るこの連載コーナー。最終回となる今回は20年に及ぶ発掘調査の結果と、鎌倉で初の史跡整備事業として進められている歴史公園オープンへの取り組みを追う。(協力/鎌倉市教育委員会)
文献の情報や昭和初期の調査から、永福寺跡は1966年に国指定史跡に指定された。当時は田畑となっていたが、市が土地買収を進め83年度から本格的な発掘調査を開始した。
調査では「二階堂」に続いて「阿弥陀堂」「薬師堂」の跡が見つかり、東向きの三つの堂が南北一直線に並ぶ独特の配置が明らかになった。また池に向かって「翼廊」が延び、先端に「釣殿」を備えた左右対称の「コの字型」の全体像が85年頃までに判明。「二階堂」は「基壇」の規模から、20mの高さを誇る鎌倉時代最大級の建築だったこともわかった。
90年代以降は主に庭園跡の調査が行われ、池の形・大きさや架けられた橋の様子、植生や当時の景観のほか、時代と共に変遷していく姿が明らかになってきた。
96年夏には寺を見渡せる東側の山上から「経塚」が発見された。大きな甕に経が入った経筒や、刀、数珠などが納められており、幕府や永福寺の繁栄を願い埋められたものだという。
歴史公園として
永福寺跡は現在、歴史公園として整備が進む。遺跡は地下に保存し、その上に建物の「基礎」と庭園を復元する。絵の史料が残っていないため建物は復元されないが、寺院の壮大さを肌で感じられる場となりそうだ。敷地南側の「植生保存地域」はすでに部分公開されており、歴史公園は2016年春のオープンを目指している。
■史跡永福寺跡…鎌倉宮から瑞泉寺方面に徒歩10分
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