第3回 「萩園」 茅ヶ崎の轍(わだち) 協力/茅ヶ崎市文化資料館
相模川に近い萩園は、川の氾濫のために土砂が堆積した土地です。昔の相模川は蛇行の激しい川で、洪水や氾濫を繰り返し、付近の村はその水害の復旧や用水の利用に苦労していました。萩園には、川普請や水争いの記録が残されています。
萩園という名は昔、「萩曽禰(はぎそね)」だったと鎌倉時代、文永8年(1271年)の古文書に記されています。萩園になったのは、江戸時代の元禄年間(1688年~1704年)以降。「曽禰」という地名は、石混じりの痩せた土地を意味します。それが豊かさを思わせる「園」に変えられたと考えられます。昔は萩が多く生えていたためか、萩原という小字(こあざ)も残っています。
萩園から西久保への道にかかる萩園橋。この橋は関東大震災で崩壊するまで石橋で、この橋石の一部が現在、鎮守の三島神社の境内に保存されています。
また、常顕寺の裏手はトノヤシキと呼ばれ、領主の一人、遠山氏が屋敷を構えていました。そして、田端近くの八坂神社は、もう一人の領主、本多氏の屋敷の鬼門除けに祀られたと伝えられています。これらから萩園が村だった頃の領主の足跡をみることができます。
【参考文献/茅ヶ崎市史1】
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