第6回「円蔵」 茅ヶ崎の轍(わだち) 協力/茅ヶ崎市文化資料館
円蔵は、江戸時代には円蔵村と呼ばれ、その範囲は、今の円蔵と円蔵一丁目・二丁目、鶴が台あたりでした。
1859年(安政6年)に描かれた円蔵村の絵図が残っており、人々が村のほぼ中央部にある微高地に固まって生活をしていた様子が見て取れます。家は70戸ありました。
円蔵村は、鎌倉時代以前から懐島郷の名前で呼ばれていました。懐島郷は、懐島景能が本拠地としました。景能は、源義朝に従い保元の乱や、1180年(治承4年)の頼朝の伊豆での旗揚げにも参加した相模国武士団の中の有力者で、鎌倉幕府の創立にも関わりました。円蔵にある御屋敷という場所に、景能の館があったといわれています。
その後円蔵は、室町時代に小田原の北条氏の家臣の領地に、江戸時代には旗本の領地となり、明治維新まで続きました。
村の鎮守・神明大神は、景能の館の鬼門除けとして創建されたといわれています。境内左奧には、「円蔵祭囃子の由来」と「円蔵神明大神宮」の碑があります。銘文には、円蔵祭囃子は、景能が家臣を労わるために催した酒宴の際の楽人の太鼓から始まり、市指定無形文化財第1号とあります。
【参考文献・茅ヶ崎市史1】
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