茅ヶ崎の轍第25回 道編 「 鉄砲道」 協力/茅ヶ崎市文化資料館
1728(享保13)年、江戸幕府は片瀬村(藤沢市)から柳島村までの海岸一帯に鉄砲場を設置しました。以後21年間は毎年演習が行われ、明治維新頃まで百十年間も存続しました。
南湖の六道の辻から富士見町の平和学園付近まで東西に貫く道を「鉄砲道」と呼び、その道筋は、鉄砲場に沿うものだったといわれています。また、始点は柳島からという説もあります。
東海岸北5丁目の鉄砲道の旧道と新しくなった鉄砲道の分岐点には、佐々木卯之助の記念碑が立っています。旗本の卯之助は、鉄砲場の管理責任者で、天保年間(19世紀前半)に砲術指導に当たる大筒役でした。南湖などの農民は卯之助の了解の下、鉄砲場内で耕作していました。しかし、幕府は卯之助が無断で耕作を許したと摘発。1835(天保6)年に処罰、伊豆国の離島・青ヶ島に流刑し82歳で亡くなりました。
半農半漁生活だった南湖では、鉄砲場内の耕作を恩恵として感謝し、1898(明治31)年に南湖中町の八雲神社境内に卯之助の記念碑を建てました。現在地には1981(昭和56)年に移りました。かつての南湖住民にとって鉄砲道は、現中海岸・東海岸の農地へ通う大事な生活道路でした。
【参考文献/茅ヶ崎市史】
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